complicity

「やあ、上級。やっぱりここにいたのか。」

他の団員のそれよりも二まわりは大きな純白の偽翼を背負った背中に、
その声は気安い調子でかけられた。
振り返って声の主を確かめる必要はない。
上級天使の耳には聞きなれた声であり、教団内には彼を「上級」などと気安く呼ばわる者などいはしないからだ。

「ドクトル・アンゲリクスともあろう者が屋上で油を売っていると知ったら、
古参の天使どもはどんな顔をするだろうな?」
「そう言うなよ。こんな天気のいい夏の日にロクに空調も効いてない研究室に篭ってるのは身体に悪い。」

屋上に入ってきた白衣の男は悪びれた様子もなくそう言うと、眼鏡の向こう側の目をぎらつく日光に眇める。

「で?教団の最高位にあるお方はこんな所で何を?」

皮肉めいたと言うよりは、悪戯好きの少年の口調で天導天使がやり返す。

「ふん、掃き溜めの中にいては気分も悪くなる。」

自分の管理する教団を「掃き溜め」と言い捨てる上級天使に、天導天使は何も言わない。
諌める代わりに天導天使は屋上のフェンスに背中を預け、かくりと頭を空に向ける。
白衣の胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけ、深く吸う。
夏の雲ひとつない青空に、一筋の紫煙がたなびき、一瞬後に風に引き千切られ霧散する。
それを見るとはなしに見ていた上級も、同じように煙草を取り出し、火をつける。

「ふ…」
「くくっ」

なんとなく二人は視線を合わせ、小さく笑った。
しばらく二人は言葉を交わすこともなく、ただ夏空に二筋の紫煙を立ち昇らせていた。

「で、我らが神のご機嫌はどうだ?」

先に口を開いたのは上級天使だった。
「我らが神」…彼らマルクト教団の擁する、現存する神。創造維持神と呼ばれる、彼らの信仰と、そして守護の対象。
だが、上級天使と天導天使にとっては―。

「効いている。」
「そうか。」

たったそれだけのやりとり。
多くの言葉を費やすのは危険だとでも言うかのような、短いやり取りの中に、
初夏の日差しには似つかわしくない感情の切れ端が浮かび、そして消える。
またしばらくの沈黙。


「お前は…」
「ん?」

言葉を継がない上級天使を、天導天使は視線で促す。

「お前は、何故、私に手を貸した?」

天導天使が笑みを浮かべる。無邪気な、それでいて底の見えない、笑み。

「どうしてだと思う?」
「…」

上級天使は沈黙。
天導天使はフェンスから身を起こし、上級天使に向き直る。笑みは浮かべまま。
煙草を深く吸い、紫煙を吐くそばからそれは風に千切られていく。

「…質問しているのは私だ。」
「不安なのかい?何を考えているのかも分からない男に教団の仕事を任せるのは。」

上級天使の意図を知っていながら、天導天使はあえて「教団の仕事」という言葉を使った。
それが上級天使には面白くない。

「質問しているのは私だと言っているだろう…!」

子供のような苛立ちを自覚しながら、上級天使は口調を荒げてしまう。
それで、ようやく天導天使はさらに笑みを深くして答える。

「信仰よりも復讐の方が 現実的リアル だからさ。」

「復讐」と天導天使は言った。あっさりと、日常会話の口調で。
天導天使は続ける。

「あなたに話を聞く以前…そう、僕がこの教団に来て初めてあなたと会ったときに
僕にはもう分かっていたよ。ああ、この男は何かを深く憎んでいる…ってね。
あなたが復讐を考えている事はすぐに分かった。
あなたが神の間に向かうときのあの顔…とても神に仕える者の顔じゃあなかった。」

そこで天導天使は言葉を切って、探るような笑みと視線を上級天使に向ける。
三度沈黙する二人の間に滞留した重い空気は、夏特有の爽やかな風を受けてなお
その密度を保っている。
上級天使は何も言わない。

共犯者トモダチ になってもいい、と思ったのさ。」

三度目の沈黙を破ったのは天導天使だった。
上級天使はやっと作った鉄面皮の向こうに融解したタールのような感情を押し隠し、天導天使を見つめている。
天導天使が、一歩、すいと、足を前に運ぶ。上級天使は動かない。
赤い瞳と、眼鏡の奥の黒い瞳が、真正面から噛み合う。

「…お前は、私を、裏切らない、な。」
「…」

天導天使は意図的に、すぐには答えない。
上級天使の顔に一瞬、ほんの一瞬、親に置いて行かれた子供の表情が浮かび、消える。
それに満足し、天導天使はようやく答えを返す。

「裏切らないよ、上級。君が復讐を遂げるまで…僕は君の共犯者でいよう。」
「…そうか。」

紫煙と共に搾り出すように吐いたその言葉は、煙のように頼りなく霧散して行く。
「私が復讐を遂げた、その後は?」
訊ける筈がない…。

「さて…僕はそろそろ戻るとするよ。研究天使たちに騒がれるとやっかいだからね。」

そう、いつもの調子で告げると、天導天使は上級天使の横を過ぎってドアの向こうへ姿を消した。
一人取り残された上級天使は、意味もなく空を見上げる。

「お前は、私を、裏切らない…な。」

同じ言葉を繰り返す。
風は、止んでいた。