魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
第11話「真夜中の果樹園」
原案:九条組 小説化:蓬@九条組
あの日以来、夏人は早苗の体重が気になって仕方がありませんでしたが、仮にもうら若い女性に体重を直接聞く勇気はありませんでした。
石油ポリタンク2本を持って千代の富士くらいという言葉から、おおよそ90キロ程度なのではと推測はつきました。しかし、早苗と同じく死海プールに沈む校長は110キロと自称していました。早苗と校長は相当な体格差がある割に、体重差が少な過ぎる様に思えました。
早苗を初めとする不可解な林檎ヶ丘村民達の生態を解明すべく、夏人は科学的調査を開始しました。
夏の終わりの村役場。
「うぉーい、あやめちゃーん」
「……何ですか村長」
「珍しく広報で募集してた相談が来たっぺな。返事書いてけろ」
毎月、村の広報誌の隅っこには『〜小中学生 心と体の悩み相談〜 人に相談しにくい悩み事にお答えします。住所・氏名・相談内容を明記して総務福祉建設水道出納課まで郵送して下さい。秘密厳守』と、取って付けた様な文句が書いてありました。人口が少ないだけに今まで一件も来た試しなど無かった相談が、遂に寄せられたのでした。
封筒を開けると、チラシの裏を利用した便箋には早苗の名前と住所が書かれていました。
「こんりゃー、白林さんちの早苗ちゃんだべさ。どうしたんだべかな」
二人は、北京原人が必死の努力の末に書いた様な早苗の字を解読して行きました。
『遠いしんせきのお兄さんのことで相談があります』
「あー、あの、最近よく出入りしてるあんちゃんだべな。昔も、母ちゃんに連れられて、よく白林さんちに来てだっぺな」
『さいきん、その人が、コソコソとヘンなことをしているみたいなんです。
それというのも、体重計を持ちあるいて、わたしの近所の人たちの体重をはかってまわっているんです』
「ああ、オラん家にも来たど。量らしてくろっちゅーから、婆さんと二人して量らしてやったべ」
『しかも、男の人か、おばさんや、おばあさんばかり、はかっているみたいなんです。わかい女の人は一人も、はかっていないみたいです。私の体重も、はかろうとも聞こうともしてくれません』
「そういや、ついでに孫も量らしたるべって青梅を出したら、あんちゃん慌てて逃げっつまっただ。んま、青梅があんちゃんの顔見るなり包丁投げたからだけんどな。もう盆踊りは終わってんだから、ええっちゅーのに。ワハハハ。
あやめちゃん家にも来たけ?」
「ええ。両親だけ量られました」
『しかも、はかった後、はかった人の体をじーっと見るそうです』
「んだな、オラと婆さんもジーロジロ見てたべ。オラ太っでっけど見た目より軽かんべ、真水に浮いちまうんだど、つったら何かメモ書いてたべな。よっぽど人の体重に興味あるんだべか」
夏人が、体重を聞くのを憚られる若い女性を避けて、男性と中高年女性を対象に何人かの体重を量った結果は、思ったよりは普通でした。村民達の体重は、見た目から予想される程度から、せいぜいそれより10キロ重い程度の範囲に収まっていました。早苗と校長の体重は、やっぱり嘘なのではないか、と思えてきました。しかし、その二人ほどではないにせよ、見た目より大なり小なり重い村民がいる事も確かでした。
「体重だけじゃ駄目だ。比重を調べないと……」
比重を算出するには体重計に乗せるだけでは足りません。夏人は、そう多くない林檎ヶ丘村の知り合いのうち、誰が頼み易いかと考えました。同年代か少し年下くらいで、同性で、細かい事ゴチャゴチャ言わなそうで……
『ちかごろは、更に辺なことをしているみたいです。この前は、私と同じ中学の男の子の家にドラム缶を持って来て、水をいっぱいに入れると、水着になって中に入ってと頼んだそうです。ついでに、そこの家のおじいさんも水に入ってもらったそうです』
「あんちゃん、一体何してるんべ?」
「さあ」
『このまえのボンおどりがきっかけで、彼は下半身の特定部位が活動終了する変な病気になってしまったそうですが、それも何か関係があるんでしょうか』
「あー、聞いたど聞いたど。あんちゃん、あんな若いのに下半身ダメになっつまって可哀想になあって、村中みんなが言ってるっぺ。もすかすたら、役立たずになったシヨツクでアタマおかしくなっちまっただべか」
(こ、こいつ俺より重いのか)
適当な事を言って野球部長を水着に着替えさせて体重を量ったら、数キロですが夏人を超えていました。しかしどう見ても、大学生の夏人の方が体積が大きいです。
続いて早苗の家の納屋から借りたドラム缶に水を一杯に入れて、野球部長に頭まで浸かって貰い体積を測定。体重を体積で割って比重を算出すると……
「い、1.2だと……」
人間の比重は、真水と同じ1.0g/cm3前後の筈。薄々予想していたとは言え、常識を逸脱した比重の人間が居る事を実証する数字を目の当たりにすると、夏人は暑さのせいではない汗で背中が濡れるのを感じました。
「なあなあ、それ大学の自由研究?」
「大学に自由研究はないけど……、まあ研究なのは確かだよ」
「写させてよ」
「駄目だよ、自分でやらなきゃ。手っ取り早く済ませるなら、アリか蚊かゴキブリの標本でも作ると良いよ」
野球部長が水から上がると、誰か帰って来ました。
「何じゃお前等、水風呂か?」
「あ、爺ちゃんお帰り」
桑田村議でした。農作業帰りなのか土で汚れています。
(げげ、こいつ、この爺さんの孫だったのか)
狭い田舎の林檎ヶ丘村の事、思いも寄らぬ所に血縁関係があったりするものです。
「孫に変な思想を吹き込んどるんじゃないじゃろうな」
「吹き込んでないって」
「心臓止めちまった事は謝らんぞー。ああせんと鉄球で死んでたかも知れんのじゃからなー」
(くそー、うるさなー)
あんまり接触したく無い相手なので夏人は早く帰りたくなりましたが、野球部長が
「うちの爺ちゃん量って見ろよ。すげー重いぞ」
としきりに促す上に、もう桑田村議は農作業の汚れを落とす為に勝手にドラム缶に入っていました。
(……折角だからこの爺さんの比重も測って行くか)
そして、およそ3g/cm3という結果を算出した夏人は、ドラム缶も置きっぱなしのまま、無言で夢遊病者の様にヘロヘロと立ち去って行ったのでした。
早苗と校長以上に異様な重さの人間を見つけた夏人は、いよいよ早苗自身の体重が知りたくなって来ました。しかし、体重計に乗ってと言う蛮勇は相変わらずありません。
そこで体重計ではなく自分自身の肉体による感覚を頼る事を思い付きました。
大学のサークル部室。
「んー、ぃよいしょ……。君何キロ?」
「61キロ」
「うーん、61キロでこんな感じかぁ」
例のパッとしないサークル仲間達を次々と背負っては体重を訪ねる夏人の姿がありました。背負った人間の重さを的確に推定できる肉体感覚を養おうとしているのです。
おんぶしてあげるとか早苗に言えば、幼児もしくは猿あるいは子泣き爺の様に喜んで跳び乗って来そうなので、その時に体感する重さで体重を推定しようというつもりです。
「サークル長、何キロですか?」
サークルで抜きん出て大柄なサークル長に尋ねました。この学生運動サークルと、プロレス同好会をかけ持ちしており、サークル内で唯一の人並み以上の筋肉の持ち主でした。
「96キロだけど……。背負うなんて絶対無理だぞ」
96キロ。この数字に夏人の胸が跳び起きる様に鳴りました。夏人が現在推測している早苗の体重に程近いではありませんか。
「背負わせて下さい」
「おいおい、お前の倍近くあるんだからな」
「大丈夫ですって」
「むー、じゃあ怪我しないように、座った姿勢から始めるんだぞ」
サークル長は夏人を片膝立てて座らせてから、背中に取り付きました。ナッパとベジータくらい体格が違うので、餃子の具を皮で包んでるみたいです。
「持ち上がるか?」
「くううぅぅぅ……」
夏人の細い筋繊維に幾ら力を込めても、持ち上がる兆候はありませんでした。地面に着いている左足、右膝、右爪先の3点が、溶接されているように1ミリも浮き上がりません。
その日、サークルには雑誌の記者が取材に来る手筈になっておりました。
その雑誌とは、前衛的な視点で世の中をちょっと斜めに論評する知的でリベラルな週刊誌『ハゲラ』。週刊誌とは言っても、エログラビアも、性病科や精力剤の宣伝もなく、『週刊下衆』の様なギトギト猥雑系週刊誌とは180度違った知的な社会派オーラを放っています。そのハゲラの記者を名乗る者からサークル長がコンタクトを受けたのは2日前。今時珍しい本格的学生運動サークルを取材したいと言うのです。
リベラルなハゲラなら、自分達を嘲笑するような記事は書かないだろう。世間一般のように、学生運動や共酸主義というだけで色眼鏡で見ないだろう。そう思ってサークル長は取材を受ける事にしたのでした。
サークルの一同は、順番に夏人に順番に背負われながら記者を待っていました。
その部室に、巨大な悪意が接近しつつありました。
悪意の名は篠崎サオリ。こらえきれない邪悪な笑みで頬をヒキツらせながら大学の廊下を足早に歩く彼女は、紛う事なき週刊下衆の記者です。
事の始まりは、林檎ヶ丘村の実家に帰省した際、隣町の農大に今時珍しい共酸主義学生運動サークルがあると耳にした事でした。バブルに沸くこの時代に頑なに共酸主義思想を貫かんとする学生サークル。これは世間から見て間違いなく異端の存在であり、偏見と蔑視の対象です。よっしゃ、いっちょバッシング記事でもでっち上げるかと思い立ち、記事を書き始めました。一切の取材無しで。
週刊下衆が他の俗物週刊誌よりも群を抜いてえげつないのは、取材を極力しない点にありました。記者の思いつく限りの邪推と妄想を、あたかも真実であるかの如く延々と書き連ねて行くのです。
俗物週刊誌において、情報が真実であるか否かなどというのは、さして重要ではありません。大事なのは、読んで楽しいか、詮索欲を満たせるか、人の不幸を満喫できるかです。既成観念に反する新しい事実を読んで、理解し吸収し、自分の考えの一部を更新する、という作業は、読者にとって非常に知的労力がかかるものであり、場合によってはアイデンティティすら揺るがしかねないものです。大衆が望んでいるのは、理解に労力のかかる真実を書いた記事ではなく、肩の力を抜いて楽に読めるステレオタイプでタブロイド的な嘲笑記事に他なりません。
篠崎サオリはサークルメンバーに取材する事もなく、偏見と妄想に任せ思いつくままに記事を書きました。サークルのメンバー構成すら知りませんが、勝手に男数人と仮定して、それぞれの惨めな過去や、無様な生い立ちや、指をさして笑いたくなる女性遍歴をでっち上げました。大体書き上がった所で、メンバーの写真と実名が欲しくなりました。記事にメンバーの写真と実名が有るのと無いのでは、リアル感や不様感、晒し者感が全然違います。
しかし、取材を申し込んだ所で、泣く子も黙る週刊下衆の記者とあっては、何を書かれるか分かったものではないと断られるのは確実です。そこで彼女は、社会派の学生がいかにも好きそうなハゲラの記者だと身分と名を偽り、サークルサークル長にコンタクトしたのでした。
部室の前に辿り着いたサオリは、音を立てないように扉をほんの僅かだけ開けました。ノックなんかしません。記者が来たと分かれば、取材対象は居住まいを正してよそ行きモードになってしまいます。そうなる前の、仲間だけしかいない普段通りの素顔を見たいのです。その状態なら、より嘲笑記事として利用価値のある、恥ずかしい会話や差し障りのある発言が得られる確率が高まります。
そして今回、サオリが扉の隙間から覗き込んだ部室の中の光景は――期待以上に異様なものでした。
中にはナウさの欠如した男ばかり6人。そのうち一人が地面にうつ伏せになり、衣服をずらして背中から尻にかけてを露出させられていました。大柄な男が、うつ伏せになっている学生の膝裏あたりに跨って、腰のあたりを触っています。他4人は周囲で救急箱を開けたり、あたふたしています。
彼らの「大丈夫か」「痛い痛い」「触ってみる限り骨は大丈夫だな」などと言う会話や、漂う湿布の匂いから、床に伏せている学生が腰を負傷し、それを他の学生達が介抱しているのは、覗いているサオリにも明確に分かりました。
しかし、会話も匂いも伝わらない写真にしたら、更にその写真を中央の二人だけ残してトリミングしたら、見る者に一体どういう解釈をされるでしょうか。
サオリはアナコンダの様な邪悪な笑みを浮かべ、ドアの僅かな隙間から写真を隠し撮りしました。
それから何食わぬ顔でノックして部室に入り、取材を開始しました。取材は手抜き極まり無く、最初にメンバーの名前を訊いて顔写真を撮影したら、あとは2〜3の適当な質問をサークル長にしただけでさっさと帰ってしまいました。
「すげーあっさりした取材だったな……」
「あれで記事が書けるんか?」
呆れつつもハゲラに載るのを楽しみに待っていた彼らの頭上に、一足早いハルマゲドンが落ちて来たのは一週間後の事でした。
『極北の農大に狂い咲く化石極左サークルを見た! マリアナ海溝より深い過激派ホモの結束と、ブラックホールより広大な部員の直腸』
こんな見出しの記事が週刊下衆に載って初めて、彼らは事態の重篤さに気付きました。恐慌状態でハゲラ編集部に電話をするも、篠崎なる記者は所属してないと言われました。
「騙された……」
呆然とする彼らをあざ笑うように、一瞬にして週刊下衆は全国書店に流通し、中吊り広告は日本中の電車で衆目に晒されました。
ペンは剣より強し。週刊下衆という情報兵器は、彼らの社会生活を破壊するのに十分過ぎる殺傷力を持っていました。研究室で、講堂で、生協で、寮で、商店街で、バスで、電車で、路上で、公園で、公衆トイレで、好奇と偏見と蔑みの視線が、黒ひげ危機一髪の如く全方位から突き刺さりました。常日頃から共酸主義者と言う事でなら周囲から異端視される事には慣れていた彼らでしたが、今回の事態は忍耐できる限界を遙かに越えていました。
6人いたメンバーのうち、4人がサークルを去りました。そのうち1人はショックの余り大学まで中退し、県外の実家に帰ってしまいました。
サークルに残ったのは、最も屈強な心身を持つサークル長と、最も糞真面目な夏人の2人だけでした。2人は顧問である赤城村議と共に、去り行く部員を引き留めようとしましたが、駄目でした。
『それと、彼が週刊下衆にのりました。電車の中つり広告になって東京の山手線をぐるぐる回ったのかと思うと、とてもうらやましいです』
「ア、アピイィ! 週刊下衆!!」
チラシ裏の便箋をめくると、次の紙は週刊下衆の当該記事のコピーでした。その時にはもう、村長はジョバジョバ床を汚染しながらブリッジ気味に仰向けになって全身を痙攣させていました。
「…………」
お姉さんは、どうせ村長に最後まで読ませでも回答を書くのに役に立たないだろうと判断し、ビックンビックン痙攣する村長を放置して、そのまま一人で手紙を読み進めました。
『でも読んでみたら、大学のサークルで、男同士で、あんなこととか、こんなこととか、のっぴきならない、もの凄いことをしているようなことが書いてありました。
このまえ大学に合いに行ったら、行かないでくれとか一緒にいてくれとか、泣きながら男同士で多人数で別れ話みたいな話をしていたので、どうしていいのか分からなくて、声もかけられずに返ってきちゃいまいした』
適当に読み流しつつ、電話を手にしました。
「あー、もしもし村長の奥さんですか。役場です。どうも。
また村長が例の発作を起こしたので迎えに来て下さい。
ええ、ええ。いつもと同じです。雑巾持って来て下さい。10枚、いや20枚くらい。
じゃあ宜しくお願いします。アリが来たら困るんで早めに来て下さい」
『彼は一体どうしてしまったのでしょうか? 私は一体どうしたらいいのでしょうか? 教えてください。
早々』
電話を切るのと、手紙を読み終えるはほぼ同時でした。どう回答すれば良いものかと2秒ほど考えましたが、今回の相談内容が相当イカれている上に、そもそも専門の教習を受けた訳でもない単なる事務職員が青少年の相談に乗ること自体が無謀に思えました。
再び電話を手にし、林檎ヶ丘中学校にかけました。
「はいこちら林檎ヶ丘中学校。いじめは一日一時間」
普通なら事務員かヒラ教員が出るところですが、いきなり校長が出ました。校長以外の教職員は軒並み心身を壊して休んでいます。
「どうも、役場です。実はお宅の生徒さんから相談が寄せられまして。ええ、白林さんの所の早苗さん。でも我々の手には余る問題なんで、校長先生が回答して貰えませんか」
「どんと来なさい」
「じゃあ相談の手紙をファックスで送りますんで後は宜しく」
秘密厳守もへったくれもありませんでした。
ところで、学校のプールから流出した高濃度の塩水は早苗の家のリンゴ畑に流れて行き、その土壌に塩害で壊滅的ダメージを与えていました。ミツマタの手入れにより良好な状態にあったリンゴの木々は軒並み枯れ、ある実は落ち、ある実は梅干しのように萎れました。塩を吹いて所々白くなった地表は、霜が降りたようでした。文明開化以前の知識とは言え農耕技術に精通したミツマタでも、塩害を除去する方法などは知らず、手の施しようがありませんでした。
ある日、塩を洗い流せば良いとイージーに考えた早苗がホースで出鱈目に大量の水を撒いたり、バケツで土を小量ずつ手洗いしていると、見慣れない白い軽トラが家の前に停まりました。中からパンチパーマでサングラスの強面のおじさんが降りて来ると、家や地面の様子をじろじろ見た後で話しかけて来ました。早苗も知らない顔なので、この村の者ではありません。
「おい、嬢ちゃんどうした、畑ダメになっちまったか」
「うん、塩水が流れて来たの」
「ホオオ」
強面のおじさんは何故か嬉しそうに感嘆の声を出すと、言葉を続けました。
「爺ちゃんか婆ちゃんいるか。ひい爺ちゃんかひい婆ちゃんでも良いぞ」
「お婆ちゃんは行方不明だよ。あとはみんな死んじゃってる」
「ちっ……」
一転して残念そうに舌打ちしました。
「それじゃしょうがねぇ、父ちゃんか母ちゃんは?」
「行方不明だよ」
「ああ?」
ここまで聞いて強面のおじさんは、この家の構成が世間一般とかなり異なる事に気付きました。
「じゃあ兄ちゃんか姉ちゃんか、伯父貴とかでもいいよ、とにかく誰か大人はいねえのか」
「あとはお姉ちゃんしかいないけど大人じゃないし、お婆ちゃんと一緒に行方不明なんだ」
「行方不明って……。
おめえ、まさか一人暮らしか?」
「そうだよ」
「ホオオ」
再び嬉しそうな奇声を上げました。
夏人の生活は崩壊を始めていました。
夏人もサークル長も、週刊下衆の事で人に嘲笑されたりする度に事実無根だと弁明していました。しかし糞真面目な夏人は、ホモ疑惑を一方的に否定する事は同性愛者差別になると感じたので、弁明の度に、同性愛者を差別してはいけない、多くの国で同性結婚が法律上認められていないのは嘆かわしい事だと付け加えました。その余計な一言が疑惑を益々深めるのは分かっていましたが、一切の社会的不平等を嫌う夏人は、そう言わずにはいられないのでした。
やがて夏人は不特定多数の人と擦れ違う事にも恐怖を覚え、昼間は外出する事すら困難になりました。バイト先の大学生協には無理を言って、仕事内容を深夜の食堂と厨房の掃除にして貰いました。
夕方に起き、日付変更頃に大学生協にバイトに行くまでは寮の部屋から出ずに過ごし、バイトが終わるとサークル部室で待っていたサークル長と会い、週刊下衆と現代社会への批判を熱く語り合い、夜明け頃に新聞配達と擦れ違わないように怯えながら寮の自室に帰る――それが夏人の日々の生活サイクルになりました。
こんな状態で単位が取れるだろうか……行く行くは卒業にすら支障が出るんじゃないか……。もう何日も同じ様に自室に閉じ籠もって悶々と考えていたある日の夕方、早苗から電話があり深夜に家に来てくれと言います。PTSDを抱える原因になった林檎ヶ丘村は気楽に行ける場所ではありませんが、週刊下衆という新たなトラウマに苦しむ今の夏人は、このまま悶々としていても発狂してしまいそうだったので、行く事にしました。深夜に来てくれというのが不可解でしたが、日中に外出できなくなっている夏人には好都合でした。
午前2時頃、自転車で早苗の家に到着した夏人は、リンゴ畑の惨憺たる有様を見てギョッとしました。萎れて葉の落ちたリンゴの低木群が、月光と家の明かりに照らされて薄ぼんやりと浮かび上がり、ホラー映画に出て来る西洋屋敷の庭の様に怪異で、吸血コウモリが飛び回っていても違和感が無さそうでした。
「あ、夏人くん来たー」
「ど、どうしたのこの畑は!?」
「あの日壊れた学校のプールの塩水が流れて来てこうなっちゃった」
「あの塩水ここに流れて着いてたの!?
え、塩害かよ。これじゃ、この畑はもう……」
「でも大丈夫だよ。いい物買ったから。今夜、もうじき届くの」
「いい物?」
夏人は、これだけの塩害を被ったリンゴ畑を復旧させらる装置や薬剤があるとは到底思えませんでした。ましてそれが、こんな深夜に配達されるとは一体何事でしょうか。
「寝てる間に届けてくれるって言うんだけど、楽しみだから起きて待ってるの。一緒に待とう」
家は、リンゴ泥棒との戦闘や、コウゾの超音速移動による衝撃波や、庵に気絶ごっこを施そうとした時の争いで、半壊同然の有様でしたが、何とか座れる程度に原形を留めてる縁側に二人は座り、庭を復旧させる何かの到着を待つ事にしました。
「あのね、夏人くん……」
「んー?」
「まだ……治らない? あの病気」
「うん……。なかなか眠れないし、じっとしてても脈が妙に速かったりしてね」
「え? 眠れなかったり心臓がドキドキしたりするの?」
「そうだよ。でも、そのうち記憶が薄れて治るかも知れないし……」
「忘れると治るの!?」
「や、まあそう簡単に忘れられる訳でも無いんだろうけど……」
「私、夏人くんの事が心配で、病気のこと色々調べたり、近所のみんなに相談したの。そしたら、村のお爺ちゃん達もにも同じ病気になったって人が沢山いたんだよ」
「爺さん達? ……ああ、昔、徴兵で戦争に行かされた時になったのかな」
「違うよ、みんな年とってからだって言ってたよ」
「え、戦争体験が原因じゃないの?」
「年のせいだってみんな言ってるよ。自分達はもう年だから構わないけど、夏人くんはまだ若いのに可哀想だ、それじゃ結婚もできんじゃないかって、顔しわくちゃにして涙ぐんでたよ」
「結婚って……。そりゃ完全に無関係じゃないかも知れないけど、ちょっと飛躍し過ぎじゃない?」
「え、だって、結婚したら、ねぇ……」
もじもじする早苗の仕草からは、背伸びして何か性的な事に言及しているニュアンスが感じられました。
「あ、あのさ、心配してくれるのは嬉しいけど、ちょっと症状の理解がズレてない?」
「えー、ちゃんと本でも調べたんだよ」
そう言うと早苗は、床に転がっていた分厚い家庭用の医学書を開きました。一カ所だけ余程読み込んだのか折り癖がついており、パカっと一発で目的のページが開きました。項目名の一つに、赤鉛筆で下線が引いてあります。
――ED(Erectile Dysfunction)
「……」
根も葉もない言葉で言うならインポテンツ、露骨な日本語で言うなら勃起不全。
「あ……」
夏人の頭の中で、数日前からの不可解な言葉の数々の辻褄が、ピタピタピタと高速で合って行きました。
始まりは、あの日のあの電話……
――もしかしたらPTSD(心的外傷後ストレス障害)なのかも……。
――PTEDって?
――アルファベットが入れ替わってるよ。
――EDが治るように、花占いするよ。
――アルファベットが抜け落ちてない?
それと、今思えば大学生協に入っていたあの投書の下手糞な字は……
――遠縁のお兄さんが、下半身の特定部位が機能停止する病気になったそうです。
――近所の人に聞いても、一生役立たずだとか言うばかりです。
更に、この村で会った人達の言葉の端々……
――厄介な病を患ったそうじゃのう。
――18って言ったら盛り……!
――食え(ミドリガメを)
――あの病院、切るだけが能じゃないんだよ。
謎は全て解けました。犯人はこいつです。PTSDをEDと聞き間違えた早苗が家の医学書を読んだ上で、複数の近隣住民に開けっぴろげに相談。人の不幸かつ下半身絡みの話だけに、ご近所噂話ネットワークを光の速度で駆け巡り、ほぼ全ての村民に周知徹底されるに至っていたのでした。
夏人の顔色が紫色に紅潮し、目の焦点が合わなくなって行きました。
「どうしたの? 顔色が前衛芸術的だよ?」
早苗が揺さぶっても、夏人の反応はありません。夏人の意識は現実を離れ、深い沼に沈んで行ってしまいました。
「ねぇねぇ」
夏人の意識が帰って来たのは、鞭打ちになりそうな程激しく揺さぶり続けて数十秒後でした。
「く、首痛いよ」
「あ、ごめんね。でもどうしたの?」
「いや、大丈夫だよ。うん。
…………あの病気の事はね、まあ、そっとしておいてよ。いつか治るよ」
(どうせ棺桶に片足突っ込んだ田舎の年寄達の噂話になっているだけだ。放っておくしかない。週刊下衆に比べたら大した事じゃない……)
「……そうなの?」
「そうだよ」
(それにEDじゃないとか言ったら将来的に早苗に襲われそうな気がする……)
まだ心配そうに見つめてくる早苗から眼をそらし、話題を変えようと夏人が考えていると、早苗が先に口を開きました。
「み、見たよ」
「見たって、何を?」
「週刊下衆」
「ちょっ、どこで買ったの!? 駄目だよ中学生があんなモン読んじゃ」
「村の図書室に毎週平積みになって、『ご自由にお持ち下さい』ってなってるの」
村立図書室と言っても、体育館の事務室の一角に全く未分類・未整理の書籍や雑誌が段ボール数箱にブチ込んであるだけの、司書どころか目録もない極限までにお粗末なものです。土建事業と違って、図書館の蔵書は、予算を注いでも票や献金として政治家にメリットが返って来ないので、大抵の市町村と同じく、いやそれ以上に林檎ヶ丘村では貧弱なのでした。
「公立図書館が週刊下衆を買って無料配布!? そりゃおかしいって」
「前に村長が週刊下衆に載ったことがあってね、その時から図書室は毎週何冊も週刊下衆ばっかり買ってるの」
「村長が載ってから……?」
「もう二度と載らないように、少しでも売上に貢献してご機嫌とってるんだって」
このような経緯で、年間十万円弱しかない村の図書室の図書購入予算は、全て週刊下衆へと化けているのでした。そして書店も存在せず娯楽に乏しい林檎ヶ丘村では、一部の住民にとって恰好の暇潰しと話のタネとなりっているのでした。
「…………」
村長が保身の為に、村の予算をそんな使い方をするのは許し難い事だと夏人は思いましたが、あの村長も自分と同じく週刊下衆の毒牙にかかったのかと思うと、僅かながら同情と親近感を感じてしまいました。
「この西郷隆盛みたいな人、夏人くんの恋人?」
図書館から貰ってきたらしい週刊下衆の当該ページの悲惨な写真を指さして早苗が悲しそうに尋ねました。
「違う違う! これはサークル長。この人はプロレス仲間に彼女がいるんだよ。100キロくらいの」
「え、じゃあ……」
「そうだよ、この悪徳雑誌に書いてある事はね……」
「西郷さんは両刀使いなの?」
「違うっちゅーの」
「じゃあ、こっちの宅八郎みたいな人が夏人くんの恋人だったの?」
「そいつは退学して秋田の実家に帰っちまったよ! うう、畜生……」
思想信条を共有できる貴重な同志を失った無念が蘇り、夏人の目に涙が滲みました。
「この人と別れ話してたでしょ。夏人君に会いに大学に行ったら、見ちゃったの……」
「や、別れ話は別れ話だけど、そういう別れ話じゃないからね?」
「私、昔から夏人くん大好きだったんだよ」
「バ、バカ早まるな何を……」
何を言うんだ……
「そんな事言ったら……」
今まで通りで居られなくなるじゃないか……
「本当だよ?」
そんなのはずっと前から、東京に行く前から分かり切っていた事ですが、こうして初めて言葉にされると動揺して動悸、息切れ、目眩がしました。
「だから週刊下衆見た時は凄いショックでね……」
「いや、だから、このスカタン雑誌は……」
「私ね、夏人くんがEDでも尿管結石でも前立腺肥大でも、どんな致命的な欠陥を泌尿器に抱えていても構わない、それも夏人くんの一部位なんだって思ってたんだけどね、週刊下衆とか、体重マニアなの見て、どうしていいか分からなくなって……」
「た、体重マニア?」
「近所の人達の体重、量って回ってたでしょ」
「う、そりゃ確かにそうだけど……(お前らの体重が異常だからだよ……)」
「それで、役場の広報誌の相談コーナーに手紙書いたら」
「待て、そりゃ相談相手を間違ってる」
「話は聞いたぞって校長先生が相談に乗ってくれてね」
「……(丸投げしたな……)」
「アイドルのスリーサイズの数字を見て床を転げ回って喜ぶ人も日本中に沢山いる訳だから、人の体重に興味がある人がいたって不思議じゃないとか、色々参考になる話聞かせてくれたんだよ。
でね、好きな人と一緒にいる方法は、なにも一つじゃないよって教えてくれたの……」
会話が噛み合ってないまま、早苗の話は何やら核心部分に差し掛かりそうな雰囲気を帯び始めました。
「同性愛者の人達って、結婚できないよね」
「うん、そうだよ。デンマークで同性凖婚姻の制度が出来そうな動きがあるけど、殆どの国では法律が変わる目処も立ってないんだよ。
社会の偏見も酷いけど、宗教や文化によっては犯罪扱いされたりたり、果ては処刑される事すらもあって、同性愛者の人権は蹂躙される事が多いんだよ」
さっきまで聞き手一方だった夏人が、話がマイノリティーの人権問題に関係してきたので途端に饒舌になりました。
「うんうん、校長先生もそんな事言ってたよ。でも時代によっては同性愛は全然普通の事だったりしたんだって」
「そうだね、日本でも江戸時代までは結構自由だったんだよ。
知ってるか? 徳川家光も伊達政宗も両刀だったんだぞ」
「知ってる知ってる。社会の時間に習ったよ」
「その社会の授業って……」
「社会の先生が心の風邪で休んでるから校長先生だよ」
「そうか。あの変な校長も案外良い授業するんだな……」
校長と早苗が同性愛者という社会的少数者に対して偏見を持っておらず、かなり理解があるのを知り、夏人の中で二人に対する好感度が大幅に上がりました。思想信条的な意味で。
「それでさ、今の日本では同性愛の人って結婚できないから、代わりに養子縁組するんだよね」
「そうみたいだね。せめてもの法律的な繋がりを求めての苦肉の策なんだろうね。何の罪もない彼等・彼女等を無駄に苦しめる法体系と政治は実に許し難いよ。保守的な痔民政権は一刻も早く崩壊して地獄の業火に投げ込まれるべきだよ」
「夏人くんは西郷さんと養子縁組するといいよ」
「いや、だから俺とサークル長はね……」
「でもね、いい年になっても普通の結婚をしてないと、きっと世間の人がとやかく言うだろうからね…………、だからね、その時はね、私が偽装結婚してあげるよ」
「……それも校長先生の入れ知恵?」
早苗は「うん」と言いながら縁側の下から隠してあった何物かを引っ張り出しました。直径1メートル強はあろう円盤状の物体で表面には白と黒の造花がびっしりと付いており、中央部には黒地に金ピカの「忌」の文字が。更に円盤からは台座と思われる木の棒が3本伸びており、そこには「子供一同」と墨書きされた白い布が掲げてありました。
「そ、それは、それわあああ」
みなまで言う前に、夏人は差し出されたそのしめやかな物体に押し倒されて下敷きになりました。
「…………この花、どっから持って来たの?」
「そこの葬式屋さん」
「まさか葬式中に勝手に持って来たんじゃ……」
「違うよ。葬式屋さんの社長に貰って来たんだよー。もう何回もレンタルして古くなったから捨てて買い換えるって言ってたから」
村には葬儀場がありました。昔から長らく結婚式場として営業していたのですが少子高齢化により経営が悪化。時代の変化に対応すべく、数年前に一念発起して火葬炉完備の葬儀場にリフォームしたら一転して大繁盛になりました。
「あそこ、お葬式の後でよく寿司パーティーしてるんだよ」
「それパーティーじゃなくて、通夜振るまいか精進落としだと思うよ。みんな三角帽子かぶってないでしょ」
「死んだ人の家族と社長が、いつも呼んでくれるんだ。料理余ったから食べに来いよって。お母さんいなくなってから良い物食べてないだろって」
「……そ、そうなのか……そうだっだのか……」
花輪の下から這い出てきた夏人の目は、常ならぬ悲哀と慈愛に潤んでいました。それは、村民の情けと、来る所まで来てしまっている早苗の生活実態を垣間見たからに他ならないのですが、早苗の目には己の極北のプロポーズに感動している様に映ってしまっていました。
夏人は、でかい花輪を縁側の上に置きっぱなしでは邪魔かと思い、庭に出して家の外壁に立て掛けました。
「……これじゃ、この家の誰かが亡くなったみたいだな……」
仕方が無いので引き倒して縁側の下に戻そうとしていると、早苗が持って帰って欲しいと言います。
「ずっと記念にとって置けるように造花にしたんだよ」
「無理だよ大き過ぎるって」
「うーん、じゃあせめて一部だけでも」
そう言うと早苗は中心部の「忌」の金ピカ文字を取り外すと、夏人の自転車の前籠に針金で固定しました。
「ほら、霊柩車みたいでカッコいいよ。擦れ違う人がみんな縁起が良いって喜ぶよ。今日からこの子の名前は『しめやか号』」
「………………」
たかがプラ板一枚、漢字一文字が加わっただけで、下手な暴走族のバイクよりも近寄り難いオーラを放つ様になりました。夏人が困惑している間に、早苗は花輪から「子供一同」と書かれた布を取り外して今度は自分自身の自転車の後籠に付けました。
「これでお揃いだよ」
「……………………」
「でも私のはあんまり霊柩車っぽくないなあ……。
そうだ、金色が無いからだ」
花輪から金色の縁取りが付いた白い菊を一つ外して来ると
「うーん……菊だと霊柩車よりも街宣車っぽくなるかなぁ?」
「……あの、どうしてそんなに霊柩車と街宣車の構成要素に詳しいの?」
「今、美術の時間でみんなで霊柩車を作ってるんだ」
「……ハリボテの霊柩車?」
「ううん、校長先生の自家用カローラを改造してるの。エンジン壊さなければ何しても良いって」
「……人間の器がでかいなあ……形はクラインの壷だけど」
「因みに去年の授業では街宣車に改造したんだよ。霊柩車の制作を始める時に装備全部外しちゃったから、もう写真しか残ってないけど」
しめやか号に乗って帰らなければならないのかと動揺しながら夏人が縁側に戻ると、静かな過疎村の深夜に似つかわしくない、地響きとエンジン音が聞こえて来ました。深夜の騒音と言えば暴走族ですが、回転数が高く自らの存在を誇示する暴走族のエンジン音と違い、回転数を極力低く抑えて忍ぶように潜行する音でした。
やがて庭先に現れたのは、真っ黒な真っ黒な大型ダンプ数台。闇夜に紛れるようにやって来た隠密性と、人体など軽くへし潰しそうな鉄塊の巨体は、重装忍者とでも言うべき凶々しいオーラを放っています。
「届いた」と言って早苗は先頭車両の運転席へ駆け寄って行きました。
「寝てろつったじゃねぇか。何、起きてんだよ」
運転席から顔だけ出したのはあの日と同じパンチパーマでサングラスのおじさんでした。何やら明らかに不機嫌です。
「届くの楽しみだから寝てられなくって」
「何ダァあのアンちゃんは? 一人暮らしじゃなかったのか?」
「私の偽装婚約者だよ」
「ああん?」
ナンバープレートが黒い板で覆い隠されているのと、運転手の半袖シャツから覗く野太い二の腕に彫られた入れ墨を見て、夏人は尋常の事態では無い事を認識しました。人も車もカタギではありません。
近付いちゃ駄目だ、戻って来い。そいつは真っ当な人間じゃない。そう叫んだつもりでしたが、動いたのは口だけで声が出ていませんでした。体が震えて声帯が正常に機能しません。
「とにかく土は置いてくからな。あとは自分で何とかしろよ」
それだけ言うと運転席の窓から身を乗り出して、後続車両に向かって腕を根本からブルンと振り上げる粗野な合図を送りました。
停止していたダンプカー群が一斉に、荷台を上げながら動き出しました。積み荷は、荷台の傾斜とダンプの加速により徐々に勢いを増しながら地面に落ちて行きました。
瞬く間に積み荷を落とし尽くすと、そのまま急加速し、来た時とは正反対にエンジン全開で闇夜の向こうへ溶けて行きました。
ダンプカー群が現れてから消えるまで、全ては一瞬の出来事でした。
「ばいばーい」
早苗が手を振って見送ると、家の中から四足歩行のミツマタが物凄い勢いで飛び出してダンプカー群を追って暗闇の向こうに消えて行きました。
一方夏人は、目前で起きた恐ろしい出来事に涙と鼻水を流して全身を震わせながら早苗の所まで這って移動してきた所でした。
赤いサインペンで大きく「恥」と書いて丸囲みをしてある白林家の貯金通帳を夏人が開くと、ナントカ興業なる正体不明の会社にウン十万円を振り込んだ形跡がありました。それは、蒸発した早苗の父が律儀に毎月送金している仕送りの、一体何ヶ月分に相当するのでしょうか。
早苗の話によれば「畑がダメになったからいい土を買った」という事でしたが、ダンプカー群が置いて行った物はいい土などではありませんでした。
コンクリート片や鉄筋の混ざった建設残土、刺激臭のする得体の知れない液体が染み出すドラム缶、工場から出た廃材と思しきゴムの端材や切り屑、壊れた大量の大型家電、夏になったら雨水が溜まってボウフラが沸きそうな大量の廃タイヤ、血液の付着した使用済みの注射器や包帯……。
それは、産業廃棄物の幕の内弁当とでも言うべき惨状でした。
ボケたり判断能力の衰えた農家の年寄りが、「田畑に肥えた土を入れてやる」と言う無法業者に騙されて金を払うと、土ではなく産廃を投棄されてしまう――その様な詐欺の手法を夏人も聞いた事がありました。
「見て見てテレビが入ってたよ! うちのより大きいよ」
早苗が、廃家電の山からテレビを掘り起こして居間に持って来ました。
「あれ? 映らないよ」
「壊れてるんだよ……」
ダンプカーが来た時は、どう見てもカタギじゃない人間と平気で会話する早苗を、度胸が据わっているものだと思いました。
しかし、騙された事を未だ理解していない早苗を見ていると、見た目や言動から相手の凶悪性を判断するだけの知能が不足しているからじゃないかと思えて来ました。
「凄いよ! どこでもドアがあったよ!」
「そりゃ仮設トイレだ! うわ、しかもひっくり返ってドアの隙間から何か出て来てるじゃないか」
「東京に行きたいです、と」
「あ開けるなバカ」
「ギャー」
縁側に腰掛けて、夏人は呆然と産廃の山を見つめていました。事態は質・量ともに、個人で対処できる範囲を超えていました。
朝になったらまず警察と村役場に電話して……、一体どんな手続が必要なんだ……、この産廃は村か県が処分してくれるんだろうか……、もし白林家の負担で処分するとなると通帳残高から考えて破産沙汰に……、産廃から変な液体が染み出してるけど成分次第では畑は永遠に耕作不能になるんじゃないか……、自転車はいつまでしめやか号にしとかなきゃならないんだろうか……、
そんな憂慮をよそに、偽装結婚する気満々の早苗は寝そべって夏人の脇腹にしがみ付いて繁殖期の蛙みたいにゲヘゲヘ笑っています。勝手に膝枕などしつつ腹に耳を押し当て、
「夏人くんの心臓、ゴボゴボ言ってるよ……」
世迷い言を口にしていました。
「それ腸のゼンドウ音ね。ヘソの位置に心臓は無いから」
夏人は今夜、白林家の現状を、頭の悪い中学生が保護者を欠いて一人で生活しているという状況の深刻さを思い知りました。
大きく溜息をつくと、明朝にならないと行動を起こせない産廃の心配に一区切り付けて、早苗の事を考え始めました。
早苗が自分を好いている事は、とうの昔から分かっていました。でもそんなのは、恋に恋する子供の気の迷いなのだろうと解釈していました。
3年と少し前、夏人が東京に引っ越す時点での早苗は小5になる所。これから、流行やら恋愛やらに加速度的に興味が沸いて行くであろう時期でした。次に早苗と会うのは何年後か分からないけど、きっとその時にはすっかりイマドキになって、自分を好きだった事など忘れているだろう。夏人はそう考えていましたので、再会して中2にもなった早苗が相変わらず自分を好きそうな素振りを見せるのには驚いたものでした。
それでも、早苗の変化が自分の予想よりも遅いだけなのだろうと思いました。早苗の脳味噌の成長速度が人並み以下だからなのか、それともこの村の人口が少な過ぎて早苗の好みに合う若い男が居なかったのか、僻地すぎて流行やらナウなヤングの情報が殆ど入って来ないからなのか。きっとそれらが複合的に作用した為なのだろう、そう夏人は考えました。
でもそれもせいぜい、早苗が高校生になるまでの、あと2年弱ほどであろうと思われました。この村には高校が無いので、必然的に村外の高校に通う事になります。高校に行けばそこはもう、井戸のように狭い村とは別世界。きっとその大海で早苗も、様々な人と出会い、清濁合わせた色々な情報に触れ、イマドキの普通の若者になって行く事でしょう。
真面目をこじらせた夏人は小学校高学年から高校くらいの時期に、同級生達の変化について行けず、いや寧ろ浮ついた事に没頭していく同級生達について行く事を頑なに拒絶した為、流行とも恋愛とも縁薄い、パッとしないねじくれた大学生になってしまいました。その事に後悔はありませんでした。
しかし早苗は違うでしょう。陽気で社交的で好奇心旺盛で、容姿もそれなり愛らしいとなれば、きっと十分人並み以上にモテて、すぐに彼氏の一人や二人できる事でしょう。そして登下校を共にしたり、一緒に部活動に精を出したりサボったり、街を出歩いたり、海に行ったり、この家に連れて来たり、そこの湿気た布団でギッタンバッコン沙汰になったりするのが必然というものです。
その頃にはもう、早苗の目に写る自分は輝きを失い、時流から外れた鈍くさい男だという事を悟ってしまっている筈。願わくば、その時の彼氏が誠実で優しい善人でありますように。ヤンキーやチンピラだったら火炎瓶投げちゃいそうだなあ。
それにしても、好きだと言われた瞬間は心臓が止まるかと思いました。普通の人は、こんな事の2つや3つ普通に経験していうものなのでしょうか。別に人を好きになる事も、好きだと言った事も、言われた事もないまま今日まで過ごして来てしまった夏人は、早苗の脳の発達具合が心配な一方で、良く考えたら自分も生物として余程通常から外れた生活史を送って来た様に思えました。
墓石のようにモノトーンでフラットな自分の恋愛遍歴に、鮮烈な赤い飛沫を、見た者の心臓をグギリと締め付ける血尿のように赤い飛沫をブチまけてくれたものだ、と夏人は思いました。
でもその飛沫も今日この時限り。早苗がもっとしっかりする時まで、再び騙されたりしない様に目を離さないようにしつつ、適当にあしらっているのがきっと最善なのだと思いました。
ところで……
早苗が上半身を乗っけている夏人の左太股が、非常な痛みに見舞われていました。大腿骨と股関節が軋む音が体の中から耳に届きます。見た目を遙かに越えるこの重さは、とても背負ったりできるレベルとは思えませんでした。
「ちょ、ちょっと、脚痛いよ……」
「え? 何でだろ」
重いからだよとは言えずに夏人が黙っていると、体を起こしてその場に座った早苗が
「あ、ワイヤーが当たってるんだね」
両腕をジャージの袖の奥に引っ込めてゴソゴソし始めました。
「ワイヤー?」
夏人が意味を分か兼ねていると、ジャージの裾から「恥」と赤書きされたブラがはらりと落ちて来ました。
「お、おいおいっ!?」
「こんで痛くないよ」
「ちょっと待て早まるなああ!!」
腕を袖に通した早苗が夏人の膝にルパンダイブするも回避され、縁側の床に落下し半壊状態の家屋全体が軋みました。
「そーゆう大サービスは将来彼氏が出来てからやってあげなさいいいい!」
「えー夏人くんと偽装結婚するんだから彼氏なんか出来ないよー」
「出来るってば」
「出来ないよー」
「そのうち出来るよ。きっと」
「作んないよー」
「出来ちゃうよ……」
「そんな事ないよー」
「と、とにかくブラ着けてよ。ジャージの内側で危険な連星系が挙動不審な軌道を描いてるから。靱帯伸びちゃうよ」
「分かったよー」
「……あの、何でジャージの上から着けるの?」
「これはこれで大丈夫なんだよ」
「いや、でもさ普通は下に着けるもんだよね」
「でも、夏人くんのお父さんも背広の上から着けて、しっくり来るって言ってたよ」
「な、何だって!? 今何て言った!?」
「夏人くんのお父さんが道端で服の上からブラ着けてお巡りさんとお話……」
「うわあやっぱり聞きたくないいい!!」
「あ、そうだ」
ふいに早苗が立ち上がり納屋へ駆け込んで行き、荒縄や竹槍や鎌を運び出して来ました。いずれも祖母が使用していた物なのか、黒く変色した血痕があります。
「校長先生がね、EDって死にそうになると治るって言ってたよ。ちょっと試し……」
「ウン、それ都市伝説だから」
後に、年を取って本当にEDになった夏人は、この都市伝説を思い出した早苗が治療を焦り手加減を誤った為に、命を落とす事となるのですが、それはまだ三十数年も先のお話。
第12話に続く