魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
第8話「林檎ヶ丘の攻防」 Dパート
原案:九条組 小説化:蓬@九条組
夏人が恐ろしい記憶を再生する夢から覚めると、そこは蒸し暑い夜の雑木林でした。暗くて周囲が良く見えませんが、変な音が幾つか耳に入って来ます。遠くからは阿波踊りの如くハイテンポの奇妙な祭の音楽、そして近くからはジョー……ォォォ……という水音。その水音に夏人は、ここがまだ夢の中で消防団が放水を開始したのかと一瞬錯覚しました。そういえばあの火事と制裁からどうやって助かったのか、夏人は思い出そうとしましたが思い出せませんでした。
樹の根元に転がった姿勢のままだった夏人は、上半身だけを起こして水音の発生源の方を見ました。火炎瓶の残り火がまだ数箇所に残って草を幽かに燃やしており、それを照島村議が尿で消していました。キャッチャーマスクは福の面と一緒に頭の上にずり上げられており、咥えた煙草がポウ、ポウとゆっくりと明滅するのに合わせて横顔が夏人の目に写りました。声から受けた印象と同じく、40歳位に見えました。
「わ、若い……」
夏人が思わず呟くと、照島村議が気付いてそっちを向きました。攻撃でもされるかと思い夏人はしまったと思いましたが、もう戦意は感じられませんでした。
「若くねえよ。40超えちまったよ」
「いや、そうじゃなくて、議員の割にはって。もっと年寄ばかりだと思ってた……」
「それよりお前も消せって。ローラーであらかた揉み消しといたから、もうちょいだ」
「あ、ああ……。水か何か……」
「そんなもん有る訳ないだろ。小便だよ小便。飲んでるんなら出るだろ」
「飲んでないよ! 未成年だよ!」
「なんだー、祭なのに飲んでねえのか? 俺なんか高校の時から飲んでんぞ」
こんな所で放尿するのは夏人は抵抗がありましたが、自分が原因の失火だけに今回ばかりは止むを得ないと思い消火を始めました。
「しっかし今時火炎瓶ってお前。革命とか書いた服着てたってけど、大学じゃまだそういうのやってるのが居るのか?」
「居ない。殆ど居ない……。そのうちゼロになってもおかしくない」
「俺が学生の頃は日本中にウジャウジャ居たなあ。俺は大学行かなかったけど、高校の同級生の中には大学で行って革命革命って火炎瓶投げてたの居たな。
みんな今じゃ、只の働くオッサンだけどな」
「…………」
夏人は尿を出し切りましたが、照島村議はまだ放尿消火を続けています。夏人が目を覚ます前から放尿していたにもかかわらず延々と出し続けています。
(どれだけ飲んでたんだ? それとも中年だからキレが悪いのか……?)
夏人が足で小さな火を踏んで消しながら訝っている間にも、放水しながら饒舌に語りかけて来ます。
「まったく毎年毎年、面倒臭えよな。こんなの、やってもしょうもないのにな。農薬だか何だか知らんけど、ウチは農家じゃねえし。かと言って出ないと議員の癖にとか言われるから出なきゃなんないし。
お前こんな祭に出て来てたら死ぬぞー? この村狂ってるからな。赤城さんに止められなかったのか?」
「止められた」
「でも早苗ちゃんに強引に引っ張って来られたって所か?
そうかそうか、そんな所だよな。うんうん」
夏人は、まだほんの少ししか言葉を交わしていませんが、話している相手がワイルドかつガサツながらも意外と普通っぽい事に気付きました。この村の異常性を十分認識していながらも、正気を保ったままナチュラルに適応しつつ、しかもそれを余り快くは思っていない――そういう村民を夏人は初めて見ました。
異様に長い放尿がようやく終わった時には、火は完全に消えていました。
「こんな祭、真面目にやってガソリンとか刃物なんて持ち出してたら死ぬからな。バットか角材あたりでお茶を濁すか、朝まで適当に隠れてりゃいいんだよ」
「朝? この奇祭徹夜でやる訳!?」
照島村議は斜面の窪みに夏人を押し込むと、手近に生えてる低木を引っこ抜いて上から被せました。それから、気絶したままの児童会長を片手で持ち上げました。
「こいつは加減を知らないからな。殺されたらつまらんから、襲われたら本気で逃げろよ」
何でも児童会長の死んだ両親のうち母親の方が照島村議の妹にあたるとかで、まったく狭くて地縁血縁の密な村だと夏人は思いました。その他にも、指力で小さな物を射出する業は人口の少ない村でガラス屋として生計を立てる為に村中の家の窓を遠距離からガラス片をぶつけて原因を悟られずに割ろうと亡き祖父が考案したものだとか、その祖父が球で窓が割れるのを期待して野球用具を村中に配ったけど期待通りにならなかったとか、祭の変な音楽や村長後援会のテーマソングの数々は自分が作ってて歌っているのは児童会長だとか、村長の一人息子が死んでるから孫の児童会長が村長選の被選挙権を得る13年後まで今の村長が続投するだろけどその頃にはヨボヨボだよなとか、どうでもいい事をベラベラ喋った末に児童会長を小脇に抱えて去って行きました。
「…………」
夏人はこのまま窪みで朝まで隠れてようかとも考えましたが、早苗と野球部長が倒れたままだったのを思い出して外に這い出ました。月明かりを頼りに見回すと、少し離れた地面に早苗がうつ伏せに倒れており、更に離れた樹の枝には野球部長が引っ掛かっていました。まず早苗を揺すると、歯茎からの出血で顔が真っ赤でしたがあっさりと意識を取り戻しました。次に早苗が、野球部長を下からバットで突付いて枝から落として目覚めさせました。
「あー、前歯抜けちゃったね。今度歯医者行って差歯入れようね。歯医者……はこの村には無いから大学の近くの所でも」
「歯医者嫌だよー。拷問みたいに痛いんでしょ?」
「でもそれじゃ噛みにくいだろうし、何だか間抜けな感じになっちゃうよ」
「大丈夫だよ、そのうち生えて来るよ」
「生えてって……。あのね、永久歯は抜けたらもう……」
と夏人が言いかけた所で、遠くから聞こえていたハイテンポの音楽が止まりました。それと同時に、村中がピタと静まり返るのが聴覚だけではなく気配からも分かりました。
「あ、もう終の槌の時間なんだ」
「終の槌だな」
「……何それ?」
「クライマックスだよ」
祭は最終段階へと移行するらしく、2人は夏人を先導して雑木林の中を元来た方に引き返して行きました。雑木林が途切れ、村営運動広場へと入ると、他の村民も続々と広場へ再集結しつつありました。しかしもう戦う気は無いようで、福の者にも狐の者にも殺気が消えていました。代わりに、何か厳粛な雰囲気が漂いつつあります。
福の軍と狐の軍はそれぞれ集結すると、10メートル程の間を置いて対峙しました。そして村内の高齢者の大半を含んでいる福軍の中から、担架に乗せられた衰弱した老婆が前へと運び出されて来ました。老婆は地面に降ろされると、小さな刃物を握らされた右腕を頭の上に目一杯伸ばし、横たわった自由の女神像の様な姿勢を取らされました。そして刃物を落とさないように手に包帯を巻かれ、更に全身を10メートル程の丸太棒の先端に荒縄で頑丈に縛りつけられました。
何か異常な事が行われようとしているのを感じ、早苗と一緒に狐軍の中にいた夏人は、後ろ歩きをして一人で群から出ました。そのまま広場の端まで行き、そこで様子を見ていようと座り込みました。周囲には、夏人と同じく祭について行けない者達が何人か居ました。その多くは、早苗の母くらいの年齢の女性と、その子供達の様でした。村の異様な風土に適応出来ない、村外から嫁いで来た女性と、半分は村外の普通人の血を引くその子供達でした。早苗の母と姉も、村に居た時にはこのはぐれ者の中にありました。
赤城村議もいました。
「皆川君、無事でしたか」
「いや、なんつーか非常に際どい所でした。
ところで、これはいったい何が行われようとしてるんですか?」
「これこそ、この村、この祭における最大の狂気――終の槌。
まあ、見ていなさい……」
老婆が完全に丸太に固定されると、十数人が左右から丸太を腰の高さに抱え込んで持ち上げました。まるで原始的な破城槌――多人数で丸太を城門に叩き付けて破壊する攻城兵器の様でした。
「丸太を抱えているのは、前の方があの老人の家族や親族。後ろの方が村の有力者です」
赤城村議が夏人に説明しました。大半の村民の顔を知らない夏人でしたが、村長・児童会長・桑田村議・照島村議らが丸太を後ろの方で抱えているのが分かりました。
広場に設置されたスピーカーが、再び音楽を流し始めました。今度は朗々たる歌謡曲です。それも児童会長の声を録音したものだったのですが、潰れた状態の彼女の声を先程一度聞いただけの夏人には分かりませんでした。聴いているとそれは、一人の人間が生まれてから死ぬまでの事が駆け足に歌われている曲のようでした。
丸太を抱え込んだ人々の顔が、一様に厳粛かつ悲壮――葬式の如き表情に引き締まりました。非常にヤバい事がいよいよ始まると夏人が直感すると同時に、一同がドわーっと沸騰した様に絶叫し、丸太を抱えた人々は前方の狐軍へ向けて突進を開始しました。重い丸太が一瞬にして恐ろしい高速に達したのは、後ろの端を土矢村議の重機の鉄球が強打して推進力を与えた為です。その衝撃で、村長はポーンと丸太から離れて飛んで行ってしまい、群衆の中に落ちて見えなくなりました。
丸太はそのまま、待ち受ける狐軍へと突っ込み、双方の人間を何人も蹴散らして止まりました。丸太の前端に固定されていた老人に甚大なダメージが及んでいる事は想像に難くありません。
「死……」
これは、これは、これは死んでしまうだろうと夏人が驚愕していると、
「そうです、死にます」
赤城村議が説明を始めました。
「これは、言わば一種の安楽死……。いや、全く安楽ではないので、介錯あるいはトドメと言った方が正確でしょう」
停止した丸太が再び動き出しました。今度は、先程の様に突進する動きではなく、その場で闇雲に回転を始めました。既に福軍も狐軍も混ざり合い渾然一体となった群集の中で、丸太の先端の老人が次々に人間にぶち当たり、薙ぎ倒しています。しかし村民達はそれを避けるでもなく逃げるでもなく、我先へと丸太の先端へと押し寄せて来ます。何度丸太で張り倒されようと、何人丸太でぶっ飛ばされようと、おしくら饅頭の様に執拗に群集の中心へと、丸太へと集まって来ます。
「この村の人間は老化が大分遅いのですが、それでもいつかは衰える時を迎えます。
衰え、寝たきりになり、これ以上衰えてなお生き続ける事に耐えられなくなった年の盆に……」
もはや群集は芋を洗うが如き様相を呈し、福の面も狐の面も落ちて、もう敵も味方もありません。ただ丸太へと殺到し、押し合い、圧し合い、揉み合い、ぶち当たるのみです。中心部の圧力がいかほどかは想像を絶するでしょう。更に、土矢村議が重機の長いアームを伸ばして上から群集を掻き回し、沼畑村議は念仏を唱えて群集の上に火炎球を降らせていました。
「こうして、祖先の霊と共に、自らあの世へ昇って逝く選択をするのです……。
生まれた時から一緒であった、村の面々の手で」
「さ、さ、殺……」
「ええ、法的な観点から言えば殺人です……。
皆川君、この村は田舎です。ド田舎です。倫理観が根本的にズレていて、現代にあるまじき様相を呈しています。
ある意味で、村全体が家族とでも言うべき、良くも悪くも濃密なコミュニティーが生きています。いや、『家族』と言っても、今日の都会的でドライな人間関係から見れば、村全体が家族以上恋人未満くらいの密接さなのかも知れません」
「家族以上恋人未満……」
「ええ」
「……先生、一瞬感動しそうになったけどやっぱりその表現キモチ悪いです!」
「はは、まあ、若い人ならそう思うのが自然でしょうね。
密接なだけに同調圧力も干渉も強く、だからこそ若い人や、村外から来た人は居心地が悪く逃げ出します……。ええ、逃げ出すんです……」
夏人は、赤城村議には村外から嫁いで来た妻と、子が居た事を思い出しました。しかし、赤城村議は共酸党員なので、保守的な土地柄故にご近所から家族ぐるみでの有象無象の迫害を受け、子供すらも小学校でのいじめに遭い、それに耐え切れなくなった妻子は去って行ったのでした。
「生活費の使い道を決めるのに家族間で自由競争などしないのと同じで、談合に対しても家族で食事を分け合う様な感覚なので、まるで抵抗感がありません。
私はそんな村の風土が許せず、迫害を受けてもずっと反体制派を、共酸党員を続けて来ました。でもこの村の面々は、仲間に対してはむさ苦しいほどに暖かい所があるんです。まあそれは、余所者や私の様な異分子に対する冷酷さと表裏一体ではあるのですが……」
死に瀕した老人は、泣きながら口をパクパクさせていましたが、離れた所にいる夏人の目にも、それが「ありがとよーありがとよー」と言おうとしながら泣いているのが何となく分かりました。
「私はこの村のあらゆる奇習・旧弊・しがらみに異を唱えて来ましたが、この終の槌だけは、こうやって満足そうに死んでいく老人達を邪魔するのだけは、何故だか気が引けてしまい、して来なかったんです」
村人の押し寄せる熱い渦の中心で、遂に老人は死に、完全に動かなくなりました。丸太は老人が固定されたまま広場の端まで運ばれ、遺族達が老人に縋り付いて泣いていました。それは、家族が死んでしまった悲しみと同時に、人生と言う一大事業をやり遂げた事に対する祝福の涙でした。
2本目の丸太が出て来ました。先端に固定されているのは90歳くらいながらも軍人みたいな威厳に満ちた長身の男性でした。その丸太を最前部で抱えているのは、村長と児童会長でした。それはつまり、村の名士としてではなく、この老人の家族として参加している事を意味しています。
「先生、今度は……」
「あれは、先代の村長です。今の村長の実父にあたります」
「実父って……。ホントに世襲なんですね」
「先代村長には世話になりました……。
異分子で、しかも政敵の私に対しても、分け隔てない真摯な態度で接してくれました。私の家に回覧板を回さなかったり、動物の死体を投げ込んだり、ゴミ収集所の使用を禁じたりする近所の人を咎めてくれたり……」
「先生、そこまでされてたんですか!?」
「ええ。公も私も、ウチも外も、境界線が希薄でミソクソ渾然一体の田舎で、共酸党員として生きて行くとは、そういう事です。
共酸党員を貫くなら、どこか近場でもう少し都会的な市にでも行ってやった方が良いんじゃないかと、先代村長に助言された事もあったのですが、私はこの村を前時代的なままで放っておけなかった。しかし、家族の事を考えれば、先代の言葉は正しかったのかも知れない……」
「……」
「行かねば、なるまい」
赤城村議は群集の方に一歩踏み出しました。
「え!?」
「今まで終の槌に参加した事はありませんでした。しかし、自分の良く知る人が逝こうとしているのを目の当たりにすると、遠くから傍観してはいられません……」
それだけ言うと、2本目の丸太の突貫が始まろうとしている群集の中へと向かって歩いて行ってしまいました。
「え、ちょっ待って!? 先生まで!?」
突然の予想外の事に止める事も出来なかった夏人は、周囲をオロオロと見回し、自分同様に終の槌を遠巻きに見ている人達と目が合いました。どの目も、絶望・恐怖・諦観・狼狽など、それぞれ様々な負の感情を湛えていました。
その陰気な目の数々に気圧され、自分もその様な目になってしまう事が怖くなり、目を逸らして群集の方を向くと、先代村長の丸太の突貫が行われ、群集が揉みくちゃの渦となりつつある所でした。先代村長は老いて衰弱しながらも、曾孫である児童会長同様、声は張りがあって遠くまで良く通るものでした。今まさに死に逝く老人とは思えない声量で、「大日本帝国、バンザーイ、林檎ヶ丘村、バンザーイ」と叫ぶのが夏人の耳にも明確に聞こえました。
群集の塊の中心で、初代村長は押し寄せてくる人々に激烈にぶち当たりながらも、目に映る人への別れの言葉を叫んでいました。その渦の中心に、人の波を押し分け赤城村議と宇鉄村議が辿り着きました。ド田舎ゆに歴代村長は例外なくゴリゴリの保守なので、共酸党と社怪党の二人は政敵にあたります。彼等に金槌と廃枕木で打たれながら、先代村長は「チクショーお前ら二人して何でもかんでも反対しやがってー」と叫んでいましたが、その声には憎悪は感じられず、旧知の友情めいたものを感じさせました。こういうのを「強敵」と書いて「とも」と読むのだろうか、と遠くから見ていた夏人は思いました。
夏人が群集の中心部から視線を外すと、群衆の外縁部から数メートルだけ離れた所で公冥党の沼畑村議が目を閉じて合唱し念仏を唱え続けていました。さっきからずっと群集の上に火の雨が降らせていますが、花火みたいなもので大した殺傷力を持たせていないのか、群集の頭髪が多少燃える程度でした。本気を出せばこの老人は隕石を落とす事も出来ると早苗から聞いていた夏人は、この火の雨は死に逝く者への演出のつもりなのだろうかと思っていると、群衆の上から丸太を小突いたりしていた土矢村議の重機の鉄球がワイヤーから外れ、地面に落ちて転がり始めました。群集は大して驚く事も無く、直径が人間の身長くらいあるその鉄球を避けつつおしくら饅頭を続行し、やがて鉄球は群集の外へと転がり出ましたが、その先に居る沼畑村議は目を閉じているからか集中しているのか耳が遠いのか、気付いて居ない様子でした。群集は皆、渦の中心を向いているので、背後へ転がり去った鉄球の行き先は目に入りません。気付いていたのは、遠巻きに見ていた夏人と死んだ目をした親子達だけでした。
「おーいっ! 公冥の爺さんっ!」
夏人が咄嗟に叫びましたが、群集が余りに騒がしいので、並の人間の声量では沼畑村議の耳に届きませんでした。周囲に居る親子達は、去年までもこの奇祭で人が死ぬのを見て感覚が麻痺しているのか、相変わらず魂が抜けた様に座り込んでいるだけした。
止む無く夏人は駆け出しました。先刻、足の怪我を治して貰った事もあり、我が身の危険を承知の上でも助けねばという強い使命感に動かされていました。
夏人が走り出したのに気付いた早苗が、群集の中から出て来て嬉しそうに手を振りました。沼畑村議に迫る鉄球には気付いていないようです。
(違う、そっちに混ざりに行くんじゃないって! アレだよアレ!)
走っているので声が出せない夏人が手と目で鉄球の方を指すと、ようやく早苗も状況を理解したようでした。しかし早苗は鉄球の方には向かわず、その場で手を合わせて祈り始めました。その表情は切実感が全く無く、悟ったように穏やかで粛々としたものでした。どうやら祈りの内容は「間に合いますように」じゃなくて「安らかに眠って下さい」のようでした。
(あ、コラ、諦めるの早いって!)
どのみち早苗よりも自分の方が鉄球に近いので、夏人はもう早苗の方を振り向かずに全力疾走しました。もう沼畑村議は夏人の数歩先でした。鉄球も目前に迫りつつありましたが、ギリギリで間に合いそうでした。
夏人が沼畑村議を突き飛ばそうと伸ばした腕が触れる直前、ほうっと沼畑村議の姿が半透明になりました。夏人の両腕は半透明になった沼畑村議の体に、何の感触も無く埋もれました。
「!?」
夏人が狼狽する1秒にも満たない間に、沼畑村議の姿は更に透き通り、完全に消えてしまいました。葬価学会に伝わる秘奥義中の秘奥義、瞬間移動でした。
夏人は一体何が起こったのかと僅かな一瞬だけ考え込みましたが、それが命取りでした。予想外の出来事に、突き飛ばす筈の地点で立ち止まってしまったので、夏人が鉄球の方を直視した時には、鉄球が夏人の身を押し潰す直前となっていました。
鉄球が夏人の肩に触れると同時に、消防団の茶色い作業服の胸に穴が開き、その下の鎖帷子はズタズタになり無数の金属の輪に分解されて上着の裾からザラザラと零れ落ちました。体が持ち上げられる様な強烈な圧力を胸板に感じると同時に、夏人は後方へ吹き飛ばされていました。
吹き飛ばされながら夏人に、竹槍を突き出した姿勢の桑田村議が見えました。先日、火炎瓶の火を消したのと同じ不可視の空気弾を放ち、夏人を吹き飛ばしたのでした。しかし、その時は室内で小さな火を吹き散らすだけでしたが、今は遠距離から人間を動かす必要があった為、空気弾の威力は桁違いでした。夏人は後ろ向きで宙を地面スレスレに飛ばされて行き、早苗に抱き止められて停止しました。夏人の頭に、かなりの速度がついていた自分をそれより軽い筈の早苗が難なく受け止めたのは不自然だとか、昔まとわりつかれた時と感触が違うとかの雑念が浮かびましたが、早苗の次の言葉で全思考が停止しました。
「うわーい、夏人くんの心臓が止まったー」
「しんぞ!?」
走ってかなり上がっていた筈の自分の脈動が感じられなくなっていました。いやそんな筈は無いと、自分の全身から脈打つものを感じ取ろうとしましたが、胸の奥は脈ではなく奇怪な細かい振動を発していました。唯一背中で感じられたのは自分ではなく早苗の心臓の鼓動でした。
(……「うわーい」じゃないだろっ!)
そう思う間にも夏人の意識は脳の酸素欠乏で薄れて行きました。
夏人の心臓が停止した原理は、野球部長が照島村議に試みた死球業と同じでした。空気弾が、夏人の心臓に偶然にも最悪のタイミングで衝撃を与えてしまっていたのです。照島村議と違って全然厚くない夏人の胸板は衝撃緩和に役立ちませんでした。小刻みに震え続ける震盪状態に陥った夏人の心臓は、全身の血液を循環させる事が出来なくなり、このままでは何分かの内に脳に回復困難な障害が発生し、更に時間が経てば死に至ります。心臓は常に規則的な電気刺激により脈を刻むものであり、電気刺激が上手く機能せず無秩序な微細動を繰り返している心臓を正常に戻すには、外部からの電気ショックで「強制リセット」する必要があります。しかしその為の装置AED(自動体外式除細動器)は、この1988年の時点では医師にしか使用が認められていません。法令改正で一般人によるAED使用が許可され日本中の駅や公共施設への配備が始まるのは、遠い遠い16年後の2004年の事でした。
大音響と閃光で夏人が意識を取り戻したのは十数秒後でした。しかし全身が眼球に至るまで痙攣しまくっており、地面の上で魚の様にビチビチするのみで、何が起きたのか考えるどころではありませんでした。突然の落雷が夏人を直撃し、その電気的ショックで夏人の心臓の電気刺激は強制リセットされて再び正常に動き出していました。
ようやく痙攣が治まって地面にうつ伏せになったまま荒い息をしていると、目の前に誰かがしゃがみ込んで夏人の片手を取りました。早苗かと一瞬思いましたが、それは皺の多い年寄りの手で、沼畑村議のものでした。沼畑村議は夏人の手首で脈拍が正常である事を確認すると、ガンジーの様な超笑顔を浮かべました。夏人はその目を見ただけで、この老人が神通力で自分を助けてくれたらしい事に加え、その前に自分がこの老人を助けようとしたのを高く評価しているらしい事を、理解しました。早苗に肩を貸して貰って立ち上がりつつ、取り敢えずお礼でも言っておこうかと思っていた夏人の手に、沼畑村議が何か握らせました。
「いや、ダイシャーク菩薩の写真なんて要りませんから」
しかし沼畑村議は「遠慮しなくていいんです」という風に目を閉じてゆっくり首を横に振ると、強引に夏人に写真を握らせました。助けられた手前、夏人はそれ以上の拒絶はせず、後で捨てるつもりで黙って受け取りました。
沼畑村議は再び微笑むと、群集の方に向き直り、歩いて行きました。そしてさっきまで立っていた群集から数メートルの所で止まり、念仏を唱えながら火の雨を降らせるのを再開しました。
「じゃあ行こうか」
「いや、いからいいから! 見学してるから!」
早苗が夏人の足首を引っ張って、渦巻いている群集の方へ向かおうとしましたが、夏人は全力で拒否しました。
「それより早苗ちゃんの髪の毛と靴がちょっと焦げてないか?」
「ちょっと雷の巻き添えになっちゃったけど大丈夫だよ。何だかお母さんの顔と自分の誕生日が思い出せなくなっちゃったけど」
「……今度病院行こうな」
夏人は引き留めましたが、早苗は一人で群衆の中に戻って行ってしまいました。
それから何分間か、夏人が再び呆然と群集を見ていると、丸太に固定されて振り回され村民達とぶつかり続けていた先代村長が、遂に死に至りました。老いて尚頑丈だったのか、一人目の老人よりも随分と長い時間がかかりました。その最期は、「お、お前ら大好きだぞコノヤローァァ!」という、村民ほぼ全てに向けられた満足げな絶叫でした。
先代村長が死ぬと、その場で丸太が地面に下ろされて縄が解かれました。広場の隅に移されていた一人目の老人の亡骸も既に丸太から外されており、遺族が抱えて再び群衆の中央へと戻って来ました。
そして、群集総出で、死んだ老人達の胴上げが始まりました。
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
多くの者が感極まって泣きながら、死んだ老人達を放り上げました。胴上げされる老人達の遺骸は、文字通り糸の切れた人形の様にブラブランと手足や首を振り回しながら宙を何度も上下しています。生きた人間の胴上げと違って姿勢を保持できないので、空中でうつ伏せになったり、頭がが下になったりしています。
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
夏人はこの光景に、カルチャーショックの直撃を受けて冷や汗が出ました。周囲で座り込んでいた親子達がフラリと立ち上がり、虚ろな歩調でそれぞれの方向へ立ち去り始めました。どうやらこれで流れ解散らしいと言う事が夏人にも分かりましたので、この狂った胴上げが終わったら早苗と一緒に帰ろうと思いました。
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
3分待ち、5分待ち、10分待ち……それでも胴上げは終わりませんでした。掛け声も、遺骸の宙に跳ね上がる勢いも一向に衰えません。夏人は右手を伸ばし早苗を呼ぼうとしかけましたが、胴上げの悪夢じみた雰囲気に圧倒され、声が出ませんでした。
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
夏人は一体何時まで続けるのかとハラハラしていましたが、照島村議との会話中に、祭が朝まで続くというくだりがあったのを思い出すと、待つのを諦め、胴上げに背を向けるとトボトボと早苗の家へ向かって歩き始めました。
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい
わあーしょい……
もうこの時点で、この盆踊りの題目が「発癌性の疑われる農薬の共同購入の是非」だったなんて事は、村議や村長達も含めたあらゆる村民の頭から、すっかり忘れ去られていました。夏人も例外ではなく、あれほど強く燃え滾っていた正義感は、余りに強烈な体験と光景の記憶に塗り潰されて消え失せていました。
この祭は、この村が昔からずっと変わらずに現代にまで来てしまった理由の一つでした。意見が分かれる何か大きな議題を巡り毎年盆踊りが開催されるものの、しかし人が死ぬ程の激しい内容と、その後数日続く通夜・葬式ラッシュの内に、最初の議題は完全に忘れ去られ、結局何もかもが今まで通りのままうやむやになり、何も変わらず、何も変われず、今までずっと、この村の歴史は続いて来たのでした。
夏人は身も心も疲れ果てて早苗の家に辿り着きました。玄関には鍵が付いていません。村中全員が知り合いなので、不審者が歩いていればすぐ分かる為、鍵が必要ないのです。窃盗はゼロなのですが、ウカウカ村外の人が歩いていると不審がられ、外国人が歩いていると110番通報されます。因みに中国人妻解放戦線は、村に来たばかりの時に外を歩いていただけで通報された中国人妻達が、そんな閉鎖的な風土に抵抗して僅か二名ながら組織したのでした。
鍵が付いていない玄関を見つめて夏人がこの村の風土を改めて実感していると、玄関が勝手に開きました。あの大きな茶色猫が内側から前足で開けたのでした。夏人が中に入って靴を脱いでいると、猫は玄関を閉めて雑巾で自分の両手足の土を拭いてから土間から上がり、更に夏人の靴を器用に前足で揃えてから家の奥へ入って行きました。
猫があんまり良く出来過ぎているのに夏人は驚き、早苗が猫をあそこまでしつける訳ないので、どこかで飼われていた猫がここまで迷って来たのを早苗が拾ったのだろうかと思いました。
猫を追って夏人が居間に入ると、もう猫の姿は見えませんでした。猫を探して夏人が視線を巡らしても、午前2時半を指している時計や、テレビの前に広げっぱなしのファミコン一式や、鴨居に干してある早苗の洗濯物が目に入るだけでした。ジャージの他にブラやズロースやらも干されており、その手の物を見たらサイズ表示をチェックして所有者のスペックを確認するのが男子たる者の嗜みであると自分の父親が言っていたのを夏人は思い出しましたが、心身ともに疲弊していてそんな阿呆な言葉に従う元気もなく、「ブラですか、パンツですか、ハァそうですか」としか思わず、沼畑村議に貰ったダイシャーク菩薩の写真をゴミ箱に捨てると、その場で座布団を枕にして眠り込んでしまいました。
何時間かの後、朝日で目を覚ましかけた夏人は、体の上に何か温かくて柔らかい感触が乗ってモゾモゾ動いているのに気付きました。
「さ、早苗ちゃん、中学生だからそういう言に興味があるのは分かるけど駄目だ! そういう事はアルトリコーダーでしなさい! そんな事したら俺が淫行処罰条例で公権力に逮捕される! そんで普通なら不起訴になる所が……俺が共酸主義者だと分かると取り調べの態度が急変して……ああ! 殴られる! 寒い所で全裸で棒で殴られる! 縄で首を絞められる! 釘を太腿に刺されるのは嫌だ! うううあっ、もうすぐそちら側に逝きます小林多喜二先生!」
と思って目を開けると、あの大きな猫が上に乗っていたのでした。
「……猫ですか、ハァそうですか」
猫は夏人の体を一通り触ったり嗅いだ後、興味を無くしたように去って行きました。それはミツマタが、夏人に農狂戦士になる資質全く無しと見極めたのでしたが、勿論夏人には分かりませんでした。
朝になっていましたが、早苗が帰って来ている様子はありませんでした。夏人は心配になり、昨日から着たままだった消防団の作業着から着替えると、家を出て自転車で村営運動広場へ向かいました。
村中が完全に静まり返っていたので、既に祭は終わっているのでしょう。となると、早苗は祭の後どこに向かったのか――。夏人は少し心配になり自転車をこぐペースを速め、広場へと急ぎました。
広場に着いた夏人が見たものは、累々と地に倒れている村民達でした。あの胴上げをしていた全員と思われる人数が、広場で倒れて動かなくなっていました。「死」という言葉が夏人の頭に湧き上がって一杯になり、青褪めながら早苗の姿を探し当てて駆け寄りました。早苗は仰向けで大の字に倒れていましたが、夏人が手首を取ると脈があり、胸と腹部もゆっくり上下していて呼吸もあり、どうやら寝ているだけと分かりました。良く見ると周囲の村民達も全員熟睡しており、ただ胴上げされていた2人の老人だけは例外で死後硬直で変なポーズで固まっていました。胴上げは、疲れ果てて最後の一人がぶっ倒れるまで続けられたのでした。完全燃焼した村民達は、夏の朝日を浴びて汗をキラキラ滲ませながら、泥の様に眠っていました。夏人は改めてこの村の異様な風土に驚愕しましたが、しかしこの光景には何か神聖不可侵なものを感じ、誰かを起こしたり話し掛けたりする気になれず、黙って村から立ち去って行きました。
その翌日の朝。
夏人が寮の自室の玄関に新聞を取りに行くと、いつもより多く新聞が入っていました。また誤配かと思いながら新聞の束を手に取ると、3紙もあります。1つは夏人自身が購読している垢旗新聞で、あと2つは公冥新聞と逝教新聞でした。
嫌な予感がして夏人が部屋を飛び出し、3階の廊下から地面を見下ろすと、寮の正門あたりに立ち去って行く禿頭が見えました。どう見ても沼畑村議です。となると、公冥新聞と逝教新聞を夏人の部屋に配達したのも沼畑村議だとしか考えられません。
夏人は祭で沼畑村議に助けられた時の超笑顔を思い出しました。あの、「自分の危険も顧みず、よくぞ私を助けようとしてくれました。その功徳は福聚海無量です」と無言で雄弁に語っていた特殊仏教徒の超笑顔を。
「………………マークされたあああ!(葬価学会的な意味で)」
第9話に続く