魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
第8話「林檎ヶ丘の攻防」 Cパート
原案:九条組 小説化:蓬@九条組
4人居た大卒と大学生は、母の会の稚児海胆により1人が倒れ、3人に減っていました。刃物を使えるハンデと機動力を活かし、村長の指令「まず大卒を仕留めるべし」を達成すべく、十余名の小学校の児童達は戦力を二分していました。児童中の最大戦力である児童会長が赤城村議と夏人を襲撃していた時、他の小学生達は中学校長と交戦中でした。
児童会長は地面の下に建造しておいた地下道から現れましたが、他の児童達は上からの襲撃を選びました。正確に言えば、上からの襲撃を強要されました。
校長は、稚児海胆により既に負傷していました。稚児海胆は一斉に降り注ぎいだものの、上から落下して来る物などを避け損なう校長ではありません。しかし、地面に叩き付けられようとする嬰児を教育者として見過ごす事が出来ず、可能な限りの数を体を張って受け止めていたのです。
母の会による稚児海胆が終了し、次は小学校児童会が来ると宇鉄村議が叫ぶと、児童会長が赤城村議の足元の地面から現れました。それと同時に、他の児童達は上空から校長の頭上に降り注ぎました。それは稚児海胆に似ていました。児童達は放さない様に手に小刀を縛り付けられ、余計な事を喋らない様に猿轡を噛まされました。そして児童会長と提携する土矢村議が操縦する巨大ショベルカーのアームで投げ飛ばされ、一人ずつ校長の頭上へ降り注ぎました。
その降り注ぐ児童達を、校長は又も全て受け止めました。受け止める度に小刀が突き刺さりましたが、校長は児童を地面に下ろすと次の児童を受け止めるべく再び上を向くのです。地面に下ろされた児童達は、後続の児童を受け止めようとする校長を蟻の群の様に取り囲んで刺し続けました。
児童会長の恐怖支配で突き動かされる小学生達の鬼気迫る凶行と、幾度となく刺されながらも降って来る児童を淡々と受け止める校長の気迫に気圧され、周囲の者達は近付く事も出来ませんでした。
そして校長は十余名の児童全てを受け止め地面に下ろすと、言葉を発しました。
「はっはっは、元気な子達だ。先生、皆が入学して来るのを楽しみにしているぞ」
修羅場での突然の情のこもった言葉に、児童達はビタリと体の動きを止め、感電した様に眼球をわななかせました。児童会長の実効支配により、喋る事も笑う事も歌う事も許されない暗黒時代の底に沈む林檎ヶ丘小では決して聞く事の出来ない、暖かい言葉。それは脈動となり、児童達の凍て付いた心に一瞬、血を通わせました。林檎ヶ丘中に入学したら自分達は救われるのかも知れない――かすかな希望が小学生達の瞳を輝かせて流れて行きました。
その一人一人の目を中学校長は見渡し――、一人だけ未だ絶望に沈んでいる児童に気付きました。その小3くらいの聡明な男子児童の目を見ただけで、中学校長は彼の思考を読み取っていました。――自分が中学生になるのは数年先。それまでに校長は異動して他の学校に行ってしまっているかも知れない――。
「大丈夫だ」
自分の心の内を汲み取られた驚きで、男子児童の目が震えながら更に大きく開かれました。
「先生この前、県の教育委員会のエラい人に『お前の様な奴は定年まで林檎ヶ丘中だッ!!』って言われたからね。今、小1の子が中学生になる頃になっても、ずっといるよ」
ブワリと全児童の目から涙が堰を切って溢れました。児童達は彫像の様に動かず、ただ涙だけを流しました。中学校長は、そんな小便小僧状態の児童達を一人一人持ち上げると、飛んで来た方へと投げ返しました。児童達は涙を夜空に撒き散らしながら軽々と飛び、それを土矢村議の重機のバケットやハサミが金魚すくいの様にフワリフワリと無衝撃で受け止めました。
「流石は鬼子母神」
校長はそう言うと、目眩を感じました。足元を見ると自らの血で水溜りが出来ています。
「いかん、血を流しすぎた。
これでは夏休み明けの朝会で、また白林君に負けてしまう……」
次の朝会こそ、前人未到の120時間超えの講話を――そう強く思いながら校長は意識を失い前のめりに血溜りに崩れ落ちて行きました。
「散開!」
母の会の稚児海胆と、小学校児童会の急襲が終わると、狐軍側の宇鉄村議が叫びました。狐の面の者達は各自バラバラの方向に走り出し、村営運動広場を囲む雑木林の斜面へと消えて行きました。最初に福軍側が急襲を仕掛け、次に狐軍側が雑木林でのゲリラ戦に持ち込む、と言うのが毎年の盆踊りの定石パターンとなっていました。
「散会? 終わりなんだね? もう帰……」
「お終いの散会じゃなくて、散って広がる散開です。林でゲリラ戦が始まるのです」
沼畑村議に怪我を治して貰った夏人が、悪夢から覚めたい一心で言いましたが、師の赤城村議の絶望的な返答に顔が引きつりました。
「夏人くん、行くよー?」
「林ん中、特殊地形での野球……。ワクワクするな」
夏人の右足首を早苗が、左足首を野球部長が掴み、仰向けに引き倒してズルズルと引っ張って行きます。普通なら背中がもみじおろしになる所ですが、着せられた鎖帷子のお陰で一番上に着た服が破れる以外は何ともありません。
夏人は二人に運動広場の端まで引きずられて運ばれました。そこから先は斜面になっている林なので、自分の足で歩くしかありません。
夏人に先行する形で草木の茂る斜面を登りながら、野球部員二人は緊張する素振りも無く先程の交戦を振り返っていました。
「白林、さっきの竹槍は良かったな」
「えへへー」
「でも竹は林檎ヶ丘野球じゃ反則だから使うんじゃないぞ」
「今日は盆踊りなんだからいいじゃーん」
「お、お前らの野球は全部反則だろうが……」
後ろから夏人がそう言うと、早苗と野球部長は足を止めて怪訝そうな顔で振り返りました。そこで野球部長は自分達の言う「野球」を夏人が全く知らない事に気付き、説明を始めました。
林檎ヶ丘村で「野球」と言った場合、3通りの意味があります。1つ目は甲子園やプロ野球でも行われている、至極普通の野球。
2つ目は、「デッドボールが出たら守備側が1点得る」「走者をタッチアウトするには触れなくても球を投げて当てれば良い」「試合前に金品や接待での審判の買収可」「試合中に判定に不服があれば審判と殴り合って勝てば判定を覆せる」「九回裏終了時点で同点の場合は延長戦は行わず乱闘で勝敗を決する」等の林檎ヶ丘村独自のローカルルールを用いた野球。発祥時期は不明ですが、少なくとも大正以前の時期から行われていた事が確認されています。何年か前までは林檎ヶ丘村で野球といえば、これの事を指していました。正式名称はありませんが、俗に「林檎ヶ丘野球」「林球」などと呼ばれています。
そして3つ目は、球技である事を捨てた「戦略野球」でした。そこには最早、バッターもピッチャーも審判もマウンドも打順もルールも存在しません。野球の業と道具を駆使して相手を物理的に叩きのめす事が全ての、総合格闘技でありました。いや、双方が合意の上に戦う「試合」という形式にこだわらず、一方的に襲撃を仕掛ける事も多いので、格闘技よりも実践戦闘技術と言った方が正確かも知れません。発祥して僅か数年と歴史は浅いものの、村内の成人数名によって構成される「戦略野球隊」は、大東亞槍術会に次ぐ村内ナンバー2の武闘集団として名を馳せています。
因みに、林檎ヶ丘中学校の野球部は、林球と戦略野球の両方を、その日の気分で選んで練習しています。しかし、全校生徒の数が2ケタに満たない上に部長以外は幽霊部員なので、練習しているのは殆ど部長と校長だけです。
戦略野球は、数年前に起きた林檎ヶ丘村のスポーツ団体補助金騒動の折に発祥しました。老人会やスポーツクラブの様な住民団体に対して、地方自治法により市町村長は公費から補助金を交付する事が出来ます。どの団体に幾ら補助金を出すかは市町村長が決める事ですから、団体補助金を巡って癒着や票田や既得権が縦横無尽に絡み合うしがらみ構造が日本全国の市町村に存在しています。更に、補助金は一旦支払われてしまえば公金ではなくなるので、その使い道も不明瞭かつ不適切なのが当たり前だったりします。
林檎ヶ丘村も例外ではありませんでした。当時、林檎ヶ丘村の人口は数百人しかなかったのにもかかわらず、妙に多数のスポーツ団体が存在しており、面倒見が良くて住民の人気も欲しい村長は無節操に補助金を支出していました。その結果、補助金を受ける全スポーツ団体の延べメンバー数は、1,500人を超えていました。それはつまり、多くの村民が1人で幾つものスポーツ団体を掛け持ちし、何重にも補助金を受けている事を意味していました。
補助金総額が巨額になるにつれ、村長は無節操に補助金を交付しまくった事を後悔しました。しかし、既得権と言うのは非常に厄介な物で、今から補助金の減額や支給対象削減を始めようものなら、村民から不満が出る事は明白でした。
誰もが納得し、尚且つ補助金を節約する手段は無いものか、そう考え抜いた末に村長が思い付いたのは、スポーツ団体同士を戦わせる事でした。戦わせて勝ち残った団体にのみ補助金を交付するのです。これならば、豪胆な村の住民性にピッタリで、誰もが納得するでしょう。
村長は、補助金を交付し続ける団体の数を、格技系で1、非格技系で1、合計2と決めました。球技やダンスが、剣道や槍術と戦うのは無理があると思い、格技系とそれ以外を分けたのです。それぞれの中から1つのみ勝ち残った団体に、補助金を引き続き交付する事としました。
非格技系の団体は、そもそも対戦方法に苦慮しました。ヨガとゲートボールがどう戦うのか。ママさんバレーとフォークダンスがどう戦うのか。村長はそこまで決めませんでした。
村立体育館で、ママさんバレーサークルと、ゲートボール倶楽部が、ゲートボール球を使ってバレーボールをしようと試みました。勿論、試合になりませんでした。同じく体育館の隅っこでは、卓球クラブ員がヨガ愛好会員に無茶な体勢を取らされ死に瀕しており、隣では他の卓球クラブ員がヨガ愛好会員の全身の穴という穴にピンポン球を詰め込んで息の根を止める手前でした。
(こんりゃ、駄目だべ……)
(駄目だ、駄目すぎる……)
体育館に集合していた非格技系団体の構成員達は、非格技系スポーツ団体同士が直接戦う事の無理さを痛感していました。体育館の床に座り込み、現在試合中のゲートボール倶楽部やヨガ愛好会の痴態を呆然と見つめる一同の中に、スッと立ち上がった壮年男がありました。青年野球部「林檎ヶ丘ディポピュレーターズ」の照島キャプテンでした。
「まだるっこしいんじゃああああア!」
照島キャプテンは発狂した様にそう絶叫すると、試合中の団体の面々を金属バットで片端から叩き潰し始めました。それはそれは鮮やかなものでした。金属バットが精妙な軌道で一振りされる度に2〜3人が頭から血を噴き出して倒れ、あるいはママさんバレーの150kgを超えるエースが軽石の様に弾き飛ばされ、30秒もしない内に試合中の全ての者が倒されていたのです。
床に座って観戦していた者達の顔が硬直し、血を浴びてどっぺりと染まっているのを見て、照島キャプテンは我に返り、やってしまった、一線を超えてしまったと思いました。しかしそれは一瞬の杞憂でした。
「こ、これじゃあー」
「そうじゃ、格技団体じゃねぇってから何を遠慮してたんだべ」
「んだ、これでこそ林檎ヶ丘村だっぺやはー」
一同が我が意を得たりと膝を打って立ち上がり、嬉々として乱闘が始まりました。それは、異なるスポーツ同士が戦う術が見つからず困惑していた局面に、暴力と言う万国共通言語が発見された瞬間でした。あらゆるスポーツの垣根を越える単純明快な唯一の真理。それが暴力。どうして今まで暴力という手段に思い至らなかったのだろうか、殴り合えば全てが明白に決着するではないか、力で解決してこそ林檎ヶ丘村ではないか――。歴史を振り返れば、この村で、この国で、世界中で、ご先祖様達は暴力で対話して歴史を切り開いて来たではないか――。英語なんて分からなくて良いんだ、東京弁だって話せなくて良いんだ、だって暴力という世界共通の言語があるのだから――。
一同の顔からは迷いが消え、実に爽やかで晴れやかな面持ちで、頭を空っぽにして非格技系団体同士の乱闘に身を投じて行きました。
そして数分の後、体育館で立っているのは青年野球部の数名のみでした。
肉弾戦において、野球は他のスポーツよりも大きなアドバンテージがありました。獲物の攻撃力においては金属バットはテニスラケットやゲートボールスティックを大きく上回り、小さく硬い野球ボールは、取り回し難いバスケットボールや砲丸を翻弄しました。
こんなに思い切り体を動かしたのは本当に久しぶりです。彼等は返り血を浴びた顔を寄せ合い、ニカリと笑顔を交わしました。
(やっぱりスポーツって気持ち良いな)
(ああ、ホントにそうだんべや)
もう言葉は要りません。彼等は笑顔コミュニケーションで瞬時に意思を疎通させると、体育館から土石流の様に飛び出しました。体育館の外――村内全域で行われている格技系団体の戦いに参戦するためです。
格技系団体の戦いは、村の誰もが予想した通り、大東亞槍術会の圧倒的優位のうちに進んでいました。白林征海議長と桑田副議長率いる大東亞槍術会の圧倒的な戦闘力の前に、他の格技系団体はなす術も無く散って行きました。相当な強さを持っていた筈の重機護身術部も、ベトコン文化研究会も、巨星白林征海の前には赤子、いや胎児同然でした。
まるで草食獣の群れに一匹だけ肉食獣がいる様なその情勢に、二匹目の肉食獣が放たれました。青年野球部です。青年野球部は勢いに乗じ、真剣を振り回す実戦剣道愛好会をバットのみで下し、役場の屋根の上に陣取り毒矢の雨を降らせる無想弓術会を下からの打球で打ち落としました。
野球は試合をするには最低でも選手2チーム分の18人を集めねばならず、過疎った林檎ヶ丘村ではもう何年も野球の試合は行えず、彼等は延々と乱闘やデッドボールの練習ばかりしていました。その蓄積が、いつしか並の格技系団体を大きく上回る実力となっていたのです。
そして遂に、生き残った団体は大東亞槍術会と青年野球部のみとなりました。勝ち残ったこの2団体は、引き続き村から補助金を受ける権利を獲得したのです。もう戦う必要はありません。しかし、青年野球部は勢い余って無謀にも大東亞槍術会に立ち向かいました。流石、照島キャプテンは、若い頃に家業のガラス屋を継ぐのを嫌がりミュージシャンを目指しギターを弾いて弾いて弾き果てた末、勢い余って他業種への就職機会も婚期も逃して結局家業を継ぐしか選択肢を無くしてしまっただけの事はあります。誰もが青年野球部が大東亞槍術会に敵う訳が無いと思い、果たしてその通り青年野球部は惨敗し全員入院しました。しかし、その心意気を大東亞槍術会の筆頭師範にして当時の村議会議長、白林征海は評価しました。彼女は、最後に勝ち残った団体が自分達と戦わない意思を見せれば、生きる価値無しとして皆殺しにする腹づもりでした。そして次の統一地方選が行われた1987年、白林征海の勇退に伴い、照島キャプテンは周囲に担ぎ上げられ嫌々ながら村議にされてしまい、現在に至ります。
それが、林檎ヶ丘村に第三の野球たる戦略野球が生まれ、青年野球部が戦略野球隊と名を改め村内ナンバー2の武闘集団としての地位を確立した経緯なのでした。但し、ナンバー2とは言っても、メンバーに議員を擁し有力視されていた諸団体が先に潰されてからの参戦でしたので、それらの団体も戦略野球隊と同等の実力を有すると目されています。
野球部長の長い説明が終わりました。因みに、話の途中でゲートボール倶楽部と老人会による混成部隊の襲撃に遭いましたが、早苗と野球部長があっと言う間に戦略野球で粉砕してしまいました。
村の野球史を聞き終えた夏人は、益々帰りたくなりました。しかし、老人達の次に林の奥から現れたのは、野球防具で身を固めた一人の男。キャッチャーマスクで顔は良く見えませんが、先程の建設作業員以上に体格がよろしいです。
「ま、まさか……、あれがその変な野球チーム……」
「だな。こりゃ多分勝てないな」
「でも1人だけだよ。3対1なら勝てるかもよ」
「馬鹿言うなって。良く見ろ、ありゃキャプテンだぞ。他のメンバー1人ならともかく、議員相手に3人で勝てる訳ないだろ」
「ちょっと、俺を戦力に数えないで!」
「じゃあ2.0001対1」
「うん、それくらいなら良い」
「うおーい、もう準備いいのかー?
行くぞー?」
少し遠くから照島村議が面倒臭そうに言いました。議員と言うからには高齢者だろうと先入観を持っていた夏人は、その声が思いの外若いのに驚きました。
「よっこら――セイっ」
早苗達が照島村議の方を向くと、大きな何かを背負い投げの様に投げました。それは整地用のローラーでした。捻りを加えて投げられたその巨大な物体が、バウンドしながら早苗達の方へ転がって来ます。
「あ、コンダーラだ」
「違う、その名前は都市伝説で間違いっ」
「そうなの? 東京語では何て言うの?」
早苗の間違いを指摘しながら夏人が後方に退避し、野球部長は前に出ました。
野球部長の視界の中、迫るローラーの後を照島村議が早足で追って来ます。自分達がローラーを横か上に避けた時に生じる隙に攻撃するつもりなのだろうと野球部長は判断し、それなら少しでもローラーが遠い内に横に避けた方が有利だろうと右を向こうとしました。しかし、野球部長の視界がまだ正面を映している間に、ローラーの前に突然、照島村議が現れました。上下にバウンドしながら進むローラーと、地面との間に一瞬生じる僅かな隙間をスライディングで通り抜けたのです。
これには、後方で見ていた夏人のみならず、戦略野球の経験豊富な野球部長も魂消ました。しかし悠長に驚いていられる程の距離はもうありません。照島村議が歩きながら金属バットを両手で構えるのを見て、野球部長は金属バットとボールを手にしました。正面からバットで打ち合っても勝ち目がないのなら、距離のある内に渾身の一球を打ち込もうと、野球部長は球をトスし全身の筋力を引き絞ってバットを球に叩き込みました。球は数メートルの距離にいた照島村議の胸板にめり込む様に当たり、甚大な衝撃を与えました。球に全員の視線が集中し、時が静止しました。
人間の心臓は、あるタイミングで強い衝撃を与えると震盪を引き起こし、正常な脈動を行えず小刻みに震え続ける細動状態に陥り、全身の血流が止まり死に至ります。この業は、打球を相手の胸板、心臓の直上に命中させる事により心臓震盪を引き起こすという、林檎ヶ丘中学校野球部に伝わる最兇最難の業でした。それは、文字通り死球と言うべきものでした。
照島村議のプロテクターから球が落下を始め、右足がズンと前に出ました。そのまま倒れるかと思いきや、次は左足が、次いでまた右足が前に出ました。
普通に歩いています。
「駄目だ、効いてないな……」
林檎ヶ丘中野球部の秘奥義とは言え、それは所詮、体が小さく骨格も柔らかい子供相手に特化した業に過ぎませんでした。スポーツ中に受けた衝撃で心臓震盪になるのは多くが子供であり、体が大きく骨格も硬い大人が同じ衝撃を受けてもそうなる確率は低くなります。体躯に恵まれた照島村議の分厚い胸板に阻まれ、打球の衝撃は心臓までは到達しなかったのです。
野球部長は自分の負けを悟り、バントの構えを縦にした様な持ち方でバットを構えました。照島村議がバットをスイングして来るのをそれで受け、ほんの一瞬でも隙を作って後方の早苗の攻撃に期待を繋ごうとしたのです。照島村議がバットを両手で振るい、野球部長のバットに接触しました。
「しら……」
早苗への指示をみなまで言い終える前に、野球部長と金属バットは同時に「く」の字に折れ曲がり跳ね飛ばされて林の奥に消えて行きました。しかし、それを察していた早苗が、間髪置かずに竹槍を持って照島村議に迫ります。
照島村議はスイング後、そのままぐるりと一回転し2度目のスイングに入りました。フィギュアスケートの様な自転運動による連続スイングは、左右の軸足を切り替える野球部長の連続スイングよりも遥かに高速でした。更に、両手で振るった1撃目に対し、右手のみで振るわれた2撃目は射程が伸びていました。早苗の体には到達しなかったものの、手元付近で槍をへし折りました。
照島村議は更に自転を続け、3撃目に入りました。早苗は、折れて半分程度の長さになった竹槍を手に後ろに跳び退きました。2撃目から推定される射程に入らないギリギリの距離から、上半身を仰け反らつつ、短くなった竹槍を投げようとします。照島村議の3撃目は、バットの端を片手で握り、片足のみを地面に着け、全身を斜め一直線に伸ばし切るフェンシングの様な姿勢でのスイングでした。その射程は2撃目を更に上回り、仰け反りながら竹槍を投げた直後の早苗の顔に迫り――口元を掠りました。白い花びらの様な早苗の上前歯が1本宙に舞い、歯経由で頭蓋骨に衝撃を受けた早苗は脳震盪を起こし、仰向けに倒れて行きました。生身の普通の人間相手になら致命傷を与えたであろう早苗の投げた竹槍は、照島村議の脇腹に当たっていたものの、またも防具と分厚い筋肉に阻まれ全く殺傷能力を発揮出来ませんでした。
夏人の目では、今目の前で数秒の間に何が起こったのか良く分かりませんでした。照島村議がバットを振り回してくるくると3回転する間に、あの人間離れした早苗と野球部長が一瞬で倒されてしまいました。しかし、4〜50kgはあるであろう野球部長を難無くぶっ飛ばし、幼い頃から公園の遊具や銅像に歯形を付けまくっていた早苗の強靭無比な歯を抜き飛ばした事から、眼前の男が稀に見る化物である事だけは否応無く理解させられました。
その男はようやく追い付いて来たローラーをガンと踵で蹴り付けて止めると、夏人の方を向いて歩き始めました。
夏人は致命的な身の危険を感じ、火炎瓶の入った肩掛け鞄に反射的に手を突っ込みます。多数持って来た火炎瓶はどれも灯油が入ったプレーンかつ殺傷力の低い物でした。こんな軟弱な兵器がこの村では役に立たないのは、祭の開始直前に早苗達が身をもって証明してくれました。しかしその中には1本だけ、灯油ではなくガソリンを使い、更に金属粉末や化学物質を加えて作られた殺傷能力の高い物を潜ませてありました。夏人は、一歩間違えば人を殺しかねないそれを、実際に使う事は無いだろうと思っていました。しかし、現在の状況は想定を遥かに超えて切迫していました。後先考えようとする理性を危機感で抑制し、着火して投げました。
すると照島村議は腰に吊るしてある袋から野球ボールを一つ出しました。それを投げて火炎瓶を空中迎撃するつもりなのが夏人にも分かりましたが、野球のピッチングモーションは急いでも1秒弱はかかるから間に合うまいと思いました。
しかし、照島村議は腕を振り上げる事はありませんでした。袋から取り出された球は、袋の口付近から、一切の腕の動き無しで射出されました。児童会長が金属片等を射出するのと同様に、弩の様な指力で弾き出された球は、常人が腕で投げるのを遥かに超える球速で、夏人の眼前で炎瓶にを粉砕。火炎瓶は膨れ上がる火炎球となりました。驚愕で大きく開かれた夏人の目と口の粘膜が、痛い程の熱気に晒されます。火炎球は尚も膨れ上がり、夏人を呑み込むかと思われた時、頭上でガサリと葉が擦れる音がしました。上を見た夏人の目に映ったのは、頭を下にして落下してくる児童会長。その手にはまたも牛刀が握られており、落ちながら夏人の首を狙っている事は明白でした。潰し損ねた夏人を再び狩る為に林に潜んでいたのでした。
虫。
落ちて来る児童会長と目が合った夏人は、虫を連想しました。感情・思考・倫理・精神が人間とは根本的に違いすぎる虫の如き無血・無情・無温の目。こんなに無慈悲な目を、夏人は見た事がありません。命を狩る事、もしかしたらこのまま頭を打って自身が死に得る事でさえ、何らの躊躇を感じていないかの様に、児童会長は落ちながら牛刀を夏人の首めがけて冷たく振りました。
眼前の火炎と上からの牛刀に、夏人はもう駄目だと思いました。牛刀と火炎のどっちが痛いだろうかと脅えながら目を閉じると、「ゴラァー」と言う声が急接近して来ます。驚いて目を開けた時には、照島村議が両手に一本ずつ持った金属バットを、夏人と児童会長の間に割り込ませておりました。いつの間に近付いたんだと思うと同時に、夏人と児童会長はそれぞれ左右にぶっ飛ばされ太い木にぶつかり気を失いました。
「やりすぎじゃお前らー」
気を失っている間、夏人は過去の記憶を夢として見ました。ガソリンが炎上する傍で大柄な人間にぶっ飛ばされると言う体験が、脳の片隅に封印された類似の忌まわしい記憶を揺り起こしたのでした。
それは確か、早苗が小学生になるよりも少し前の事。まだ早苗の両親も家にいた頃の事でした。夏人は既に小学生になっており、母に連れられてよく早苗の家に遊びに来ていました。
その日、早苗は悪戯で父親の灰皿にガソリンを入れておく事を思い付きました。火事になるからやめようと夏人は止めましたが、早苗は聞く耳持ちませんでした。
そして悪戯は実行に移されました。早苗の父が煙草を灰皿に近づけた瞬間、爆発炎上し家の壁と屋根の一部が損壊。ちょっとしたボヤに発展しました。
早苗の父は頭髪と眉がパンチになりながらも、子供の他愛のない悪戯として笑って許し、速やかに火消しを始めました。早苗と両親、夏人母子が火を消していると、祖母が怒りの形相で部屋に入って来ました。
その日の祖母の怒り具合は尋常ではありませんでした。身の丈2m20cmを超える鋼の巨体の持ち主は、一同がバケツで壁の火を消している部屋に入って来るなり、「ジャぼばあ」というような異形の大音量で咆えました。その大音量の振動で肋骨と横隔膜がビリビリビリと痺れ、早苗の父以外は泡を吹いてのた打ち回りました。そこからは見えませんが、二階に居た早苗の姉も例外ではありません。
次に祖母は太い竹棒を持ち出し、振り上げました。目に映る全員に制裁を加えようとする強い意志が眼光から溢れ出ています。もはや火事など意に介していません。
父は倒れている家族と来客を、身を挺して祖母から庇いました。しかし、父も体格が良いものの180cm程度と常識的な範囲であり、人類を逸脱しかけている祖母には及びません。何度も何度も竹棒で打ち据え続けられた末、父は昏倒してしまいました。父が倒れると、次の標的は早苗でした。泡を吹いて痙攣している早苗を、祖母は完全に動かなくなるまで打ち据え続けました。
そうこうしているうち、壁の火は広がりボヤから本格的な火事になりつつあり、外からは「火事だー」という声と消防団が軽可般ポンプを引きながらドタドタと走ってくる音がしました。
しかし、祖母の制裁は止まりません。地獄の業火の如き怒りの前には、家を焼く火など線香花火も同然なのでしょうか。倒れている夏人の腹に竹棒が突き立てられ、内臓が口から出そうになりました。これは死ぬ、あと一発受けたら死ぬと夏人は確信しました。
その時、屈強な消防団数人が焼け落ちかけた壁を蹴り壊して入って来ました。消防団は部屋の中の異様な状況を見て硬直し、猛り狂っている白林征海の方を恐る恐る見ました。制裁の邪魔をするな――白林征海の目はそう雄弁に語っていました。消防団は一歩後ろに退きかけましたが、床に倒れている白林一家を捨て置く訳には行かず、意を決して部屋の中に踏み込みました。その瞬間、テリトリーを侵された猛虎の咆哮が響き渡り、消防団が痙攣しながら床に崩れ落ちました。この咆哮を浴びて立っていられる者は、村に数人しかいません。白林征海が消防団を竹棒で滅多打ちにしていると、婦人防火クラブが突入して来ました。因みに構成員は老人会婦人部と殆ど同じです。とにかく征海を鎮めようと防火ハッピを着た小柄な老婆の集団が征海にまとわり付きますが、片端から殴り飛ばされ一人また一人と減って行きました。
遂に婦人防火クラブの最後の一人が、その頭部と同じ位の大きさの征海の拳で顔を大胆に変形させられて、夏人の目の前の床に転がりました。消防団と婦人防火クラブを一掃した征海は、消防団の前に標的にしていた夏人の方を向きました。その時、火の粉が征海の頭に落ち、頭髪に火が付きました。夏人はこれで助かるかもしれないと思いました。流石の征海も、自分の頭に火が付いてはお仕置きを続けられないだろう、水を求めて外へ飛び出して行くだろうと思いました。
しかし、征海は意に介さず夏人に向かい歩いて来ます。
火は見る見る広がり、征海の頭髪の半分程が炎上しています。
しかし、征海は微塵も気にせず竹棒を振り上げました。
火は更に広がり、今や征海の髪全体が怒髪天を突くが如く激しく炎上しています。
それは地獄の悪鬼、いや閻魔と言うべき凄絶過ぎる威厳を放っていました。
――ここは日本じゃない――地獄だ――!
幼い夏人の記憶は、そこで途切れていました。
Dパートに続く