魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
第7話「腐の森の魔女」 Bパート
原案:九条組 小説化:蓬@九条組
ミツマタと庵は、マリィの意識の戻るのを枕元に座って待っていました。
「ところで庵殿、コウゾは……」
「コウゾじゃ。こいつはコウゾじゃ。信じ難い豪腕を持ってはいるが、もはや只の猫畜生じゃ。のう、コウゾ」
フニャー……
ゴロ〜フ……ゴロ〜フ…………
「久しぶりに弟に会うたのだ、素直に喜べば良かろう」
「そうで御座るな……」
暫くしても、マリィの意識は戻りません。真夜中なので庵は段々眠くなって来ました。
「……眠い。いい加減、帰るぞ」
座布団の上に正座していた庵でしたが、待ちくたびれて畳の上に寝転がりました。
「庵殿、ご自分で蒔いた種に御座るぞ。マリィ殿が気が付くまでは見届けねばいかんで御座る」
「相変わらず堅いのう。うぬは本当に猫か?
思えば、只の猫であった時分から、お手もお座りもお預けも出来る、犬以上の猫であったのう」
庵が、ミツマタから何とはなしにマリィに視線を移すと、寝返りを打ちました。
「……こやつ、寝ているのではないか? 気を失っているのではなく」
「……かも知れぬ様で御座るな」
庵が起き上がってマリィの頬を全く遠慮なく抓りました。
「いぎぃ!」
「お、目が開いたぞ」
「マリィ殿、気が付いたで御座るか。気は確かで御座るか」
ミツマタが膝立ちになって話し掛けます。
「うー……。まだ、『1階の床の痛み』、が、残ってたのに……」
「自分の名前は言えるで御座るか?」
「しらは゛やし…………うう、名字はひらがなで6文字だから入り切らないの…………。
でも……さなえは3文字だから入り切るの…………」
「8×3は幾つで御座るか」
「…………8………………16……………………………………24?」
「日本の首都は何処で御座るか」
「とうきょうううううう」
「ミツマタ、こやつ、頭が……!」
「いや、以前と変わらぬで御座る。安心いたした」
マリィは周囲を見回し、1階の居間に寝かされていまるのが分かりました。
枕元にミツマタと庵が座っており、庵の膝の上では小さな虚無僧がゴロゴロしていました。編笠を外しているその顔は、ミツマタ同様の猫でした。茶色いミツマタに対し、顔の上半分が黒で下半分が白く、その境界が八の字状になっている八割れ白黒猫でした。尺八を握っていた手は、代わりに冷凍サンマを振り回してます。
「あ、猫だったんだ……。どうりで小さ過ぎると思ったら」
「拙者の弟でコウゾと申す」
「そのサンマは冷凍庫の……」
「済まんで御座る。こやつ、拙者と違い知恵も言葉も持たぬ故、勝手に……」
マリィはコウゾの眼を見つめました。ミツマタ同様に二足歩行していますが、その目に知性の光はありませんでした。先程、リンゴ泥棒の残骸を叩いて騒音を出していたのも、恐らく理由があっての事ではなく、ただ単にそうしたいと思って遊んでいただけなのでしょう。複雑な思考も、高度な知性も持ち得ない、純粋な猫の眼は、あちこちを見回して忙しく動いていました。
マリィは上半身を起こしました。肉体は回復していましたが、服の腹の部分は廃墟のカーテンの様にセピア色に風化し、大穴が開いています。
「うわ……」
受けた攻撃の凄まじさに改めて驚愕しました。
「警告はしたぞ」
「つ、次はさっさとどくよ」
「しかし身共の一撃を食らいながら生き延びるとは頑強な奴よ」
「みども?」
「自分の事を指しているので御座るよ」
「…………ああ、ミーね。シェー?」
「ミツマタ、こやつ、頭が……!」
「いや、以前と変わらぬで御座る」
それ以上リンゴ泥棒が来る気配も無く、マリィの無事も確認されたので、庵とコウゾは帰る事にして縁側から外に出ました。マリィとミツマタも見送りに出ました。
「ねぇ、屋根と床、直せないの?」
庵の妖異な力を身をもって思い知ったマリィが、ふと思い付いた事を言葉にしました。
「無茶を言うな。血肉も魂魄も無い物を治せるものか」
「木は切られても生きてるよ」
「ふむ……それもそうだな。試してみるか」
庵は脇差を抜くと、縁側の太い柱に軽く突き立てました。その刀身は太刀と違い鏡の様に滑らかで、マリィのヘッドライトを反射して白く輝いています。
家全体から、ぐぐぐぎぅ、と木が軋む音がしました。折れていた梁や柱のうち主要で太い物から枝が生え、膨らみながら絡み合って融合し、折れた部分を埋める様に太く頑強になって行きました。やがて、折れていた部分には古木の様な節くれが形成されて繋がり、主だった柱と梁は繋がりました。
「あ、ありがとう……。凄い……」
本当に出来るとは期待していなかったマリィは改めて庵の力に驚いていました。
「……他の部分は? 瓦とか壁紙とかは?」
「それはまるで生きていない。無理だ」
「それと……、何か家が傾いてない?」
家を構成していた多数の四角があちこちで、長方形ではない平行四辺形に変形しています。
「梁が蠢いたのだからな、いささか全体の形は変わるであろう」
「なに、マリィ殿ならこの家が潰れた所で死ぬ事は無いで御座ろう」
「ええー?」
「贅沢言うな。昔の農家の家屋など、これくらい傾いていて当たり前であったぞ」
「そんなぁ……」
「時に庵殿、何処に宿して居るので御座るか?」
「隣町でミステリーサークルを作る輩を追っておる。宿はあれじゃ」
庵が暗い夜空の地平線近くを指差しました。街頭も殆ど無い真っ暗な田舎の夜空の彼方に、1つだけそびえ立つ高層ビルの窓々の光がありました。深夜なので大半の窓の明かりは消えており、辛うじてビルの存在が分かる程度です。最近、隣町に出来た高層マンションでした。近くには夏人の通う農大もあります。
そのマンションが完成した時の林檎ヶ丘村長の嫉妬ぶりは尋常ではなく、おらが村にも億ションを誘致するんだと有象無象の様々な接待工作を弄しましたが、アパートすら無い林檎ヶ丘村には到底無理な話でした。
「あ、あの東京風のビル? あれって凄く高いマンションじゃない?」
「安くは無いであろうに、よく借りたで御座るな」
「駅前やらでこやつに托鉢をさせると、よう集まるぞ」
庵が目でコウゾを指すと、フニーと小さく鳴きながら邪気の無い目でコウゾも庵を見上げました。ミツマタと違い言葉を解しませんが、庵の意思は良く分かる様です。
「庵殿、コウゾを衆目に晒しているので御座るか!?」
ミツマタが少し血相を変えましたが、庵は飄々としてコウゾの喉元を撫でてゴロゴロ言わせています。
「なに、顔しか見えていないからな。芸だとしか思われぬわ。何年か前に猫に服を着せて立たせるのが流行っていたらしいぞ。
コウゾ、そろそろ行くぞ」
庵が出発しようと、マンションの方に向き直った時、マリィのヘッドライトを反射してテカる何かが見えました。
「お……、何じゃこれは」
庵が近付いて見ると、リンゴの木々の中に一つだけ黄金色をした実がありました。
「珍しいでしょ。この前から実ってるんだよ。
何年も前に幼馴染のお兄さんと植えたのが、今年やっと実ったんだよ」
マリィは嬉しそうに話していましたが、庵は恐ろしい物を見る目で実を凝視していました。更に視覚ではない感覚を研ぎ澄まさせ、実と木と周囲をまさぐっています。
「庵殿? いかがなされた?」
庵が探っているのはミツマタにも感知できない物なのか、ミツマタに声をかけられても庵は険しい顔をしたまま動きません。
「庵殿?」
ミツマタが再び呼びかけると、庵はゆっくりと首をミツマタとマリィの方に向けてから、コウゾの隣にまで戻って来ました。しかし、ミツマタの呼びかけに応えたという感じではなく、何かを掴んだ為の様でした。
庵の目は、マリィのステッキを捉えていました。棒の先に巨大なリンゴが付いた形の、暗く鈍い輝きの金属鈍器。マリィが右手に持って地面に立てているステッキの、2メートル程もある上端から下端までを、庵の視線が何度も往復しました。
「これがどうかしたの?」
庵が何を思っているのか分からず、マリィは怪訝そうに庵とステッキを交互に見ました。
庵の隣に立つコウゾも、庵の視線を追ってステッキをじっと見つめては、庵の顔をじっと見上げてを繰り返していました。
「……それか」
庵がステッキを睨みながら、ようやく口を開きました。
四人の視線がステッキに収束します。
「……これ?」
コウゾがフニフニ鳴きながら再び庵を見上げ、またステッキに目を向けると同時に、ぐぐ、と腰を低くし身構えました。突如、コウゾから強烈な気迫が噴き出し、それを察知したミツマタ、マリィの順にコウゾの方を向いた時には、コウゾが地を蹴り、ステッキ目掛けて一直線に飛躍する弾丸と化した瞬間でした。
コウゾは地面を一度だけ蹴り跳躍し――――――音速を超えました。非常事態に臨んで極限まで研ぎ澄まされたマリィの五感は、その一秒にも満たない一部始終をスローモーションで知覚していました。コウゾの速度は、先程リンゴ泥棒を迎撃しに跳び上がった時を遥かに上回っており、動き出した瞬間ボボゴッと二連続の大爆音が強烈な衝撃波と共に辺りを揺らしました。そのソニックブームに、コウゾのすぐ横にいた庵が真っ先に吹き飛ばされました。暴風で体を宙に持ち上げられ、袴ははためきもせず風下から引っ張られているかの様にビーンと硬く張り詰めています。そのままコウゾとは反対方向に、リンゴの木を薙ぎ倒しながら余りに軽々と果樹園の奥に吹き飛んで行きました。爆風同然の轟音の中、「――――――――」と何か悲鳴らしいのを上げたのも、まるで聞こえませんでした。次いで、家の全てのガラスと障子が吹き飛び、瓦は舞い上がり、襖や家具が倒れ始めました。庵と家を見て驚愕したマリィが正面を見た時、もうコウゾは目前にまで迫りつつありました。コウゾが向かう先はステッキ上端のリンゴ形の部分でしたが、それはマリィの頭のすぐ斜め上にあったので、マリィは何らかの防御や回避をしなければと思いましたが、体が思う様に動かず、そこで初めて自分自身も空中に巻き上げられつつある事に気付きました。非常に重い上に棒と球という空気抵抗が少ない形をしたステッキをその場に残し、体は後方へと仰け反りつつあり、足は地を踏んでおらず、口にも目にも空気が容赦なく流れ込んで来て、頬も瞼も内から外から風に煽られビルビルと振動し、口腔と鼻腔と肺の中では小さな竜巻が渦巻き息が出来ないばかりか破裂しそうです。コウゾは右手に尺八を振りかぶり、マリィの頭のすぐ近くで、リンゴ形のステッキ先端部に力任せに叩きました。重金属の塊であったステッキ先端部が、ゴバンッとスイカの様に数個の破片となって砕けました。そこまで見届けると、マリィは爆風に煽られ空中で完全に仰向けになって地面に肩から落ち、しかしそれでも止まらず、庵同様にリンゴ畑の奥へと転がりながら吹き飛ばされて行きました。
ポカッ
「わひゃあ」
マリィは頭を殴られて意識を取り戻しました。しかし目の前は真っ暗で何も見えず、しかも頭から何かを被っているようで息がし難いです。
横たわっていたマリィは上半身を起こし、そこでコウゾに吹き飛ばされた時の怪我であちこちが痛いのに気付きましたが、そう重傷では無いようです。それでも、最初に地面に落ちた時に痛めた右肩だけは結構痛く、腕が上がりません。
ポカッ
「痛!」
また殴られました。しかも痛い右肩に当たったので、痛みが倍増します。
「痛たたた……あ、あれ……?」
しかし、殴られた痛みも、元々の怪我の痛みも、共に一瞬で消えました。
「な、治った!?」
肩を動かしてみると、全く痛みも無く、元通りに自由自在に動きます。いや、元通りどころか、肩が元気に嬉しくなっています。この陽気は一体何でしょうか、肩が嬉しくて嬉しくて、どんどん力がみなぎって来て、今なら太陽の塔でも引っこ抜けそうです。
ポカポカポカポカポカポカポカ
「うわっわわわわっひゃあああひゃひゃひゃひゃひゃ!」
突然、連続で殴られ始めました。全身至る所を矢鱈に殴り付けられ、その部分に怪我が有れば治り、怪我が有っても無くても異様な力と陽気と嬉しさが湧いて来ます。
ポカポカポカポカポカポカポカポカポカ
「うわはゃ〜はゃはゃはゃはゃはゃ!」
今まで体験した事の無い感覚でした。心も体も爆発的に活性化して、全身の全細胞がそれぞれ勝手にゲラゲラと爆笑しているかの様な錯覚を覚えます。
「これ、もう良いで御座る。それ以上やったら狂うてしまうで御座る」
姿が見えないミツマタの声がすると、殴打は止まりました。しかしマリィは笑いながら地面を転げ回り続けています。
「はははゃはゃはゃひゃひゃひゃほょ〜〜〜〜〜〜」
「おおマリィ殿、しっかりするで御座る。今以上に狂うてはならぬで御座る」
「ぶひょひゃはゃはゃはゃゃ」
相変わらず何も見えない暗闇の中、ミツマタらしき手足がマリィを押さえ付け様としますが、マリィはそれを振り払ってのた打ち回ります。
「はゃはゃは〜〜〜〜ひゃひゃひゃ……グエー!」
ミツマタが後から両腕で首を絞めて、マリィはようやく落ち着きました。
「ふぅ。あのまま狂い死ぬかと思ったで御座る」
「ミツマタ? どこ? 何も見えないだけど?」
「覆面が前後逆で御座る」
ミツマタがマリィの頭部を覆っている布をぐるりと回転させると、ようやくマリィの視界に物が映りました。しかし見えたのは、最後に居た筈の自宅の畑でも、見慣れたミツマタの姿ではなく、地面も空も闇一色の世界に佇む、緑色の覆面ローブで全身を覆った二つの人影でした。その内一人は身長数十cmなのに対し、もう一人は2〜3mもあり更に強い動物臭がしました。
「ここは……野菜で野球した所?」
「左様。聖域ゆえ、静粛にしているで御座るよ」
覆面ローブのうち、小さい方からミツマタの声がしました。そこは、早苗が農狂戦士にされた日に奇妙な球技をした闇の世界でした。マリィはまさかと思って自分の体を見ると、思った通り元の服の上から緑色のローブを着せられていました。
「……何この服?」
「正装に御座る。
それより、次は庵殿に御座る。ほれ、ハナ、こっちで御座る」
ミツマタが大きい方の覆面ローブの裾を引っ張りながら指差した先には、庵と思われる別の覆面ローブがうつ伏せに倒れていて、ピクリとも動きません。マリィから10mと離れていませんが、ミツマタに引っ張られて歩く巨体の動きは極めて遅く、のたり、のたり、と一歩一歩鈍重に進むので、一向に辿り着きません。マリィがローブのスソから僅かに見える足を観察すると、蹄が見えました。
「……牛?」
「左様。こやつも農狂戦士なれど、鈍い上に頭も回らぬ故、専らここで治療役を担っているで御座る。
傷の深い庵殿を先に治すよう言うたに、初めて見る物珍しさでマリィ殿を小突き出す始末で御座る」
ハナと言う名前らしい牛は一応ヨタヨタと二足歩行しているものの、ミツマタやコウゾ程の様な大幅な筋骨構造の変化は出来ないのか、普通の牛が無理して前足を浮かして後足だけで歩いている様な感じでした。
やっとの事で庵の所に到着すると、牛はモ゛フーと大きく溜息をつき、背中を丸めると前足の蹄で庵の頭を一発叩きました。叩かれた勢いで、庵はスコーンとカーリングの様に地面を滑って行きました。
「これ、力加減が強すぎで御座る。お主やマリィ殿ほど頑強ではないので御座るぞ」
ミツマタが庵の脇に腕を入れて、牛の所まで引き摺って戻って来ました。牛は10秒ほど考え込む様に動きを止めた後、左右の前足で弱く庵を叩き始めました。
ポカポカポカポカ
「ふむ、それくらいなら良いで御座ろう」
「殴って回復させるの?」
「左様。しかし匙加減を一つ間違えれば、精神が陽気に喰い尽くされ、笑い狂うて廃人になってしまうで御座る」
あの時、コウゾの神速で、物体が音速を超えた時に発生する衝撃波であるソニックブームが生まれました。ミツマタはいち早く耳を塞ぎ体を丸めて対ショック姿勢をとったので、大分地面を転がされましたが何とか無事でした。人間よりも軽く、体を丸めた形も球に近いため、転がされてリンゴの木にぶつかっても大した衝撃にならないのが幸いしました。しかし、モロに吹き飛ばされた庵とマリィは人事不省に陥り、特に肉体強度が普通の人間と変わらない庵の方は重傷で鼻血と耳血が止まらなくなっていたのを見て、ミツマタがこの空間へと連れて来たのでした。
「……う……、痛ぅっ……」
「庵殿、大事ないで御座るか」
庵が気が付いて声を上げました。牛はまだ殴り続けています。
「……おお、ハナとミツマタか……。コウゾめ、見境無しに暴れおって」
最初ぐったりしていた庵でしたが殴られている内に急速に回復し、上半身を起こした時には背筋もピンと伸びていました。
「……ふふ……ふははは……」
「あ、おかしくなって来た!」
高笑いを始めました。覆面で外からは良く見えませんが、目が据わっています。
「もう良いで御座る。止めるで御座る」
「ねぇねぇ、このまま続けるとどうなるの?」
ミツマタが牛を制止しようとしますが、牛は言っている事が即座には理解出来ないのか、中々殴る手――と言うか蹄を止めません。
「……くふ……くはははははは……」
「これ、止めぬか。庵殿が狂うてしまっては、冥府で御館様に合わせる顔が無いで御座る」
「もうちょっとやってみようよ」
「マリィ殿、拙者を押さえてどうするで御座るか。ハナを押さえるで御座る」
牛とミツマタとマリィが揉み合っていると、
「ふはっ! くかかかかかかかかっ!」
庵が跳ねる様に立ち上がり、そのまま笑いながら闇の奥へと駆け出しました。霧の中の様に視界の狭い闇の中で、庵の姿はすぐにぼやけて見えなくなりました。
「庵殿!」
ミツマタが後を追い、すぐに追い付きましたが庵は止まりません。マリィは首を絞めてでも正気に戻したミツマタでしたが、かつての主人の娘に対してはそんな事は出来ないのか、呼び掛けるばかりで、いつまで経っても庵は正気に戻りません。庵は出鱈目な方向に蛇行しつつ曲がりつつ走るので、元の場所に留まっているマリィと牛は、庵とミツマタが視界に現れては消えるのを何度も見る事になりました。牛は疲れたのか、その場でゴロリと巨体を横たえ寝てしまいました。
「これでは埒が開かぬで御座るな」
庵とミツマタが6回目にマリィの視界範囲に現れた時、ミツマタは庵を追うのをやめてマリィの所で立ち止まりました。庵は一人で再び闇の奥へと消えて行きました。
「手伝おうか? 首絞めればいいの?」
「無用に御座る。マリィ殿が絞めたら首が折れるか抜けるか分かったものでは御座らぬ」
マリィが指をワキワキさせながら声を掛けましたが、ミツマタは堅く断りました。
「じゃあどうするの?」
マリィが尋ねると、ミツマタは無言で右の掌を上に向けました。
パシ
何かが手に握られる音に、マリィがミツマタの手を覗き込むとミカンが握られていました。
「どこに持ってたの? 四次元毛穴?」
「ここは農狂戦士の聖域。念ずれば、農にまつわる多少の物なら得られるので御座る」
「へー、祈れば出て来るの? 便利だね。私にも出せるかな」
ミツマタはミカンを何度か握り、さほど硬くない事を確認していました。そして投げる構えをとり、庵が近くに来るのを待ちました。やがて、姿の見えない庵の高笑いが近付いて来ました。
「……くくくくかか……父上が、父上がまた…………、ふかかかかか……」
庵が近付きつつあるのはマリィにも分かりましたが、まだ見える範囲には入ってきません。それでもミツマタは庵の位置を補足し、
「御免!」
と叫んでミカンを投げました。次の瞬間、視界に庵が現れ、庵の頭に当たる様に見えたミカンでしたが、直前で庵が右手を肩に伸ばすと背中の辺りから黒い飛沫の様な物が飛び出し、ミカンを迎え撃ちました。鮮やかな黄橙色だったミカンは飛沫に触れると瞬く間に色褪せ、艶の無い緑色になりました。そして急に速度を失って庵の足元に落下すると、バサリと粉になって砕けました。それはカビの胞子でした。急速に朽ちて劣化したミカンは、カビてカビてカビ果てて、ミカンの形をしたカビの胞子の塊になっていたです。庵が、全身ローブを着る時には邪魔にならない様に背負っている例の太刀を僅かに鞘から出して攻撃を放ち、ミカンを迎撃したのでした。刀身から生まれた黒い飛沫はローブの下から出たので、ローブの一部もミカンと同様に朽ちて穴が開いています。
「ふはっ」
庵は短く笑うと、また闇の奥へ奔走して行きました。
「駄目で御座ったか……」
ミツマタは溜息をつくと、念を込め、今度は虚空から栗のイガを出しました。
「うわー、今度はそれ? 痛そー」
マリィが少しワクワクしながら言います。
「このまま投げはせぬで御座る」
ミツマタは指で器用にイガを割り、中の栗の実3粒を取り出しました。更にご丁寧に、実の頂点の尖った所まで刀で切り落とします。
「それじゃ安全になっちゃうじゃない。面白くないよ〜」
全く緊張感の無いマリィを無視して、ミツマタは右手の指の間に3粒の栗の実を挟むと、再び投げる構えをとりました。ミカンよりも小さく迎撃し難い栗の実を同時に3粒投げれば、当たる確率が上がると踏んでいました。
「……はふはははははははふ……」
再び庵の声が聞こえて来て、ミツマタは指に力を入れ、いよいよ投げる一瞬の機会を狙っていた時、
「見て見てミツマター」
横からマリィが能天気な声を掛けてきました。集中しているミツマタは、とにかく先に栗を投げてからマリィの相手をしようと思いましたが、ズシッ、ミシミシッ、と只ならぬ音に嫌な予感がして止むを得ずマリィの方を見ました。
「凄い大きいのが出たよー」
マリィが両手で頭上に掲げているのは、アトランティック・ジャイアント――巨大カボチャコンテストにも使われる黄色く圧倒的サイズを誇るカボチャでした。しかも、直径はマリィの身長を上回る程あり、これなら日本国内の何処のコンテストに出品しても上位入賞確実。世界大会でも十分通用するレベルのカボチャです。
「マリィ殿、まさか」
投げるつもりでは御座るまいなと言う前に、えーいとマリィは殺人的サイズのカボチャを庵に向けて投げていました。
「庵殿!」
ミツマタはローブを脱ぎ捨てカボチャを追って駆け出しました。声に気付いて庵はミツマタの方を向きましたが、高い位置から落ちて来るカボチャは目に映らず気付いていない様でした。
「ふおッ!」
ミツマタは高く跳び上がって空中でカボチャに追い付くと、べらぼうな速さで刀を振りまくりました。ピシピシピシとカボチャに切れ目が走り、庵の頭上に降り注いだ時には無数のサイコロ状の断片と化していました。
「ふくくく……お、おおおおおおお!?」
サイコロは一辺10cm前後で、単体での重さによる殺傷力は殆どありませんでしたが、量が量だけに庵を埋める程の山を作るのに十分でした。
「庵殿、無事で御座るか?」
宙から降り立ったミツマタが、カボチャ片の山をかき分けて庵を探します。山から片腕が僅かに出ているのを見付けると、引っ張っりながら上半身を掘り起こしました。庵の意識と正気を確かめようとしたミツマタでしたが、
「凄いよ〜。いくらでも出て来るねー」
マリィの声が背後からしました。ミツマタが後ろを振り返ると、宙を舞いこちらへ飛来しつつある巨大カボチャが一つ、二つ、三つ。そしてたった今マリィが両手を挙げると虚空から忽然と出現した四つ目のカボチャも、全く躊躇無く投げられました。
これだけ多数の巨大カボチャを、全て空中で切り刻むのはミツマタにも不可能な事でした。ミツマタが迎撃を諦め、庵を掘り起こして共に逃げると決めてカボチャに背を向けると、庵が下半身をカボチャ片に埋もれさせたままもがいていました。左手でローブを脱ごうとしているものの裾はカボチャ片に埋もれて遥か下で脚に絡まっており、右手で背中の太刀を探しているものの鞘は体より深く埋もれていて柄は背中の真ん中あたりにあって手が届きません。
「ミツマタ!」
目が合うと庵が叫び、意図を読んだミツマタは庵の背中に回りこみながら自分の刀を下から上に跳ね上げました。庵のローブの背中が縦一文字に切り裂かれ、ミツマタはそこから、太刀をゴボウを抜く様にスルリと取り出しました。セミが羽化する様に、庵がローブの切れ目から上半身だけを出して太刀を受け取ります。ミツマタの手にある内は只の錆びた刀でしたが、庵に手渡されるとズンと暗く重い陰気を帯びました。刀身の切っ先から鍔元に至るまでのあちこちから、何条もの黒い触手の様な物がびゅるびゅると射出され、それぞれ違う軌道を辿りながら、カボチャに吸い込まれる様に命中して行きました。4個のカボチャは瞬く間に腐り、熟れて腐り落ちた柿の様な赤茶色い半液状の塊になりました。
「ふふふ……」
庵が再び笑いましたが、もう狂気によるものではありませんでした。合計1トンは確実に超えていた標的を一瞬で朽ち果てさせた己の力に満足していたのです。
「お見事で御座る」
ミツマタが膝を付いて恭しく言いました。
しかし、事態は完全には解決していない事に二人はすぐ気付きました。カボチャはゲル状になり殺傷力は殆どなくなったものの、二人に向かって落ちて来ているのは変わりません。このままでは、ウルトラクイズか風雲たけし城の出演者みたいに、でろでろになってしまいます。
庵は腰の脇差に手を伸ばしました。庵の大小は刃物であると同時に妖術の道具でしたが、武術の心得が全く無いので刃物として使用した事はありません。太刀の方は物を劣化・腐敗させる事しか出来ませんが、脇差の方は早苗の家の柱に干渉し得た様に、かなり器用な真似が出来ます。しかし、あらゆる生物の無念・怨念を力の源泉とする太刀の方が出力は圧倒的に上なので、普段は専ら太刀を使っていたのですが、今ばかりは太刀ではどうにもならない事態の様でした。庵が防護壁でも展開しようと脇差を抜こうとした時、ミツマタが庵の右腕をガッシリと掴みました。
「何だ?」
庵が見ると、ミツマタはフと僅かに笑うと、
「もはや術を練る暇は無いで御座ろう」
腕を掴んだまま庵に背を向け、
「御免!」
庵を背負い投げしました。完全にカボチャ片の山に埋もれていた庵の下半身がズボリと抜け、弧を描いて滑る様に宙を飛び、数メートル先の地面に尻餅をついて着地しました。
「ミツマタ!」
庵がミツマタの方を振り返ると、カボチャ片の山の上で、背負い投げをした直後の体勢のミツマタが顔を上げ、庵と目が合うとまたフと僅かに笑いました。その直後、上から降ってきた腐れカボチャにベショっと直撃され、ミツマタの姿は見えなくなりました。
「ミツマタ〜〜〜〜〜!」
続いて二個目と三個目の腐ったカボチャがミツマタと庵の間の地面に落ち、茶色く粘っこい水溜りになりました。
「ま、まこと、うぬは犬以上の猫じゃ〜〜〜〜〜〜」
四個目が庵を直撃しました。
午前4時。早苗の家の照明は未だついていました。3人は奇怪な空間から戻り、腐れ汁まみれになった庵とミツマタは服を洗濯機に入れて浴室に体を洗いに行き、その間マリィは変身を解除してコウゾと遊んでいました。
コウゾは二足歩行する事と、マリィ以上の馬鹿力がある事を除いては、普通の猫でした。喉を撫でれば引っ繰り返ってゴロゴロ言うし、猫じゃらしを振ればじゃれついて来ましたが、じゃれて飛び付く勢いで壁や畳に簡単に穴が開きました。もう家は滅茶苦茶なので、今更穴が一つや二つ増えても気になりません。
庵とミツマタが浴室から出て居間に入って来ました。庵の着ている「24時間予算折衝 〜補助金は農家を救う〜」と書かれた黄色いTシャツは、早苗の小学校時代のものです。ミツマタは裸ですが毛が濡れて体が相当縮んで見えます。
ミツマタは目を見開いたまま、だくだくと涙を流していました。
「ど、どうしたのミツマタ? ロリロリの幼女と一緒にお風呂に入れるマスコットの特権がそんなに嬉しいの?」
「さ、さにあらず……」
2個目以降のカボチャの落下軌道の読みが甘かった己の不甲斐なさと、予想を超えたマリィの馬鹿さ加減に、挫けそうになっていたのでした。
「もう帰る……。乾かすぞ」
庵が眠気で辛そうに言うと、ミツマタが二槽式洗濯機の脱水槽から洗濯物を取り出してパンパンと引っ張ってシワを伸ばしました。洗濯物一つ一つに庵が脇差で僅かに触れて回ると、洗濯物の水分が一瞬でモワモワと水蒸気になり、乾燥してしまいました。庵は面倒なので借りた服の上から袴と剣道着と胴を身に着け、後は懐に仕舞い込んで縁側から庭に出ました。コウゾも後を追い、早苗とミツマタも見送る為に外に出た所で、庭に落ちている砕けたステッキが大事な事を思い出させました。
「あ、そうだ、これが一体どうした訳だったの?」
ステッキは大きい状態のまま砕けて地面に転がっていました。棒の部分は元の形のままですが、リンゴ形の部分は数個の破片となって、辺りに散らばっており、鈍器としてはともかく、変身用道具として使えるかは怪しいです。
「……おお、死にかけてる間に忘れておったわ。
ミツマタ、これを与えたのはうぬか?」
「いかにも。羅刹に相応しき、鉄よりも遥かに重き武具に御座る」
「これは……何と形容すべきか……。言うなれば、そうだな、呪われておるぞ」
「ま、真に御座るか!?」
「そうなの? 手にくっついて離れなくなったりしないよ?」
「この様な物を弄り回しておったら、身を滅ぼしよるわ」
あの時、庵はステッキの只ならぬ危険性を感じ取り、その庵の意思を察知したコウゾが深い事は考えずにいきなり全力でステッキを砕いたのでした。
「その報いの一つがあれじゃ」
庵が指差した先には、黄金色にテカるリンゴの実がありました。
「え、あれが!?」
「あな恐ろしや……。毒気に当てられ、あの様な異形の実を結びよるとは」
「あれって愛と友情の聖なる奇跡とかじゃないの?
呪いだなんてあんまりだよ」
良く見ればそのリンゴの木は、黄金色の実の他にも、葉の幾枚かが八ツ手の様に巨大化する等の奇異な点が見受けられます。
「拙者も妙なリンゴの木があると思っておったが、よもや武具の呪いが原因で御座ったとは……。
壊した故、これ以上の厄災を起こす事は無いで御座るか?」
「否、砕いた所で粉塵の一粒一粒に至るまで、この金物自体の魔性は変わりはせぬ」
ステッキの危険性は砕けば失せる性質のものではないようです。
「壊れたステッキどうすれば良いの? 燃えないゴミ?」
「たわけが。安全な所で何人たりとも触らぬよう封じておけ。
努々燃やしたり海に捨てたりするでないぞ」
「面目無いで御座る……」
何かとんでもない物を出してしまっていた事に、ミツマタは益々挫けそうになっていました。
「だけど、これから何を使えばいいの? また鉄パイプ?」
「心配せずとも代わりをくれてやるわ」
庵がコウゾのヒゲを一本引っ張ると、コウゾは不服そうな顔と声でフギーと言いましたが、大人しくじっとしていました。ヒゲは抜けると、十数センチの白銀色の棒になりました。棒の先に片刃の刃物が付いていて、薙刀のミニチュアみたいでした。
「ぬあっ!」
小さくても尋常ではない重さなのか、庵が棒を取り落とし、それをコウゾの手が難なく受け止めました。コウゾの手に収まると薙刀はスルスルと大きくなり、2メートルを優に超える長さになりました。柄も刃も同じ素材で形成されており、全体が一つの金属塊となっているようです。
「研ぐ。それを立ててじっとしておれ」
コウゾが薙刀の刃を上にして、地面に垂直に突き立てました。庵が太刀を数センチだけ鞘から外し、刀身から黒い紐の様な細い物がバサバサと何本も現れ、薙刀の刃に群がって行きました。黒い紐は刃を撫でる様に何度も触れ、その度にザリザリと白い金属粉が散って研がれて行きました。糸の様に細い一本が刀身に大きく切れ目を入れて、兎をあしらって切ったリンゴのシルエットの様な形になりました。
「ほう、風雅に御座るな」
庵が太刀を鞘に収め、今度は脇差の方を少しだけ鞘から外して白い光の紐を一条だけ出すと、それは薙刀の刀身をブツッと貫通して小さな穴を開けました。穴の中には紅玉が現れ、兎の目になりました。
「こんなもんかのう」
「そうだ庵殿。早苗殿は竹槍の素養があるで御座る」
「竹槍とな。ハハハハ、そうかそうか、このどん百姓め」
庵の太刀から黒い鞭の様な物が一閃し、地面を突いている柄の端を斜めに切り落として鋭利にしました。
「出来たぞ」
「ありがと……。前のより軽そう」
早苗が受け取りに近付こうとすると、コウゾは雰囲気からもうじっとしている必要がないと思ったのか、突然薙刀を振り回し始めました。リンゴ泥棒の残骸が、庭木が、石が、刺身の様にスパスパと容易く切り刻まれます。
「危ない! 危ないいいいい!」
「ヒイイイ! やめんか! それはうぬのではないわ!」
庵と早苗が伏せて必死に逃げ回り、ミツマタが取り押さえてコウゾは止まりました。
「危うい所で御座った」
「ぬぅ、飼い猫の戯れで死んでは浮かばれぬわ」
早苗が薙刀を拾い上げてみると、確かに重いものの、素の状態でも持ち上げる事なら可能な重さでした。見た目にも明るい白銀色なので、同じ銀色でも暗く鈍い色だった前の物より、軽そうな印象を受けます。
「あ、本当に軽い」
「されども、前のと同じ形であれば、殆ど同じ重さになるのだぞ。
しかし馬鹿でかいリンゴが付いておらん分は軽かろう。うぬの馬鹿力で軽々と取り回せば、ミツマタにもそうは劣るまいて」
「へー」
「もう用は無いな。今度こそ帰るぞ」
庵の声に、地面に寝転がっていたコウゾが走り寄って来たかと思うと、庵の服の腰部分をムンズと掴みました。
「あ、こら、自分で飛ぶからいい!」
コウゾは聞く耳を持たずに僅かに腰を屈めたかと思うと、あの恐るべき跳躍をまたも行い、庵を片手で掴んだまま地平線近くのマンション目掛けて一息で跳び去りました。今回は音速は超えなかった為、周囲への被害はありませんでしたが、人体の許容範囲を超える強烈な加速度に、庵が一瞬で気を失ったらしい事は、宙を飛び小さくなって行く影のうち庵の部分だけが全く動かず脱力している事から如実に分かりました。
「うわー面白そう。今度やってもらおう」
「お、お痛わしゅう御座る……」
「そうだ、この前の変な野球の相手だったのって、あの子でしょ?」
「おや、気付いていたので御座るか。腕っ節でとは言え、惨敗したのを気にしておられる故、庵殿には言わないでおくで御座るよ」
「カボチャが命中した瞬間に、『わーいデッドボールだー』って感動したら記憶が繋がったの」
「……」
「それより、同じ農狂戦士なのにずるいよ。私よりよっぽど魔女っ娘っぽくて。見た目は変だけど」
「ぽいも何も、正真正銘の魔女で御座る。深淵でも無双の術者として、腐の森の魔女と謳われているで御座るよ」
「私も魔法使えるようにしてよ〜。対戦車砲くらいの火力でいいから」
「素養が無いので無理で御座る」
第8話に続く