魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
 第7話「腐の森の魔女」 Aパート
   原案:九条組  小説化:蓬@九条組

 早苗はリンゴ泥棒をたおした後に残る硬化した金属表皮の処理に悩んでいました。取り敢えず家に持ち帰り、3体分溜まったのでゴミ捨て場に不燃物として出しておいたものの、大きすぎるので回収してもらえず、再び家に持ち込むしかありませんでした。
 困った早苗は、ゴミ処理センターに電話しました。
「もしもし、ゴミ処理センターですか? 粗大で不燃なゴミの回収なんですけど……」
 ゴミ処理センターは複数の市町村が共同運営している事が多く、林檎ヶ丘村のゴミは最寄の市にあるゴミ処理センターが回収しているのでした。
「車で直接持ち込み? ちょっと待って下さい」
 家には軽トラが1台ありましたが、祖母と姉がミツマタに裏山に捨てられて以来、家に人間は早苗しか居なくなってしまったので一度も動かされていません。
「ミツマタ、運転できる?」
「ペダルに足が届き申さぬで御座る」
「あ、もしもし? 運転できる人がいないんで無理です。
 取りに来て貰うと……はぁ、有料ですか。え、しかも林檎ヶ丘村は遠いから追加料金?
 物ですか? 死体が3つ……。
 え、あ、いや待って! 違うんです違うんです! あ、今のカチって音なに? 嫌っ、録音しないでっ! 通報しないでっ! 逆探知だめええぇぇぇえ!!」
 早苗が電話線を引き千切って通話は終わりました。

「困ったなあ……」
 庭に放置してある金属塊を見ながら早苗は溜息をつきました。
「この様な物、山にでも打ち捨てて置けば良いでは御座らぬか」
 ミツマタは環境問題意識が江戸時代で止まっています。
「そういう訳には行かないよ……」
 悩んだ末、毎週不燃ゴミの日に、少しずつ小さく切り刻んで出して行く事にしました。

 その夜の丑三つ時、早苗はミツマタに起こされました。
「早苗殿……」
「…………なにー……? ……王家の紋章の続きなら本棚の上から4段目だよ…………」
「書を求めてるのでは御座らぬ。彼奴等きゃつらに御座る」
「……夜中にぃー……?」
「盗人が白昼堂々来ていた今迄の方が不思議で御座ろう」
 早苗は、学校指定の真紅のジャージで寝ていました。朝起きたらそのまま学校に直行できます。
 嫌々起き出して変身すると、納屋からライト付きヘルメットを出して来て被りました。ミツマタは夜目が利くので月明かりで十分の様です。
 二人は縁側から外に出ました。足元には処理に困った金属塊が転がっており、また今夜増えるのかとマリィがうんざりしていると、ミツマタがピタリと足を止めました。耳がピクピクと動いており、人間には聞こえ難い小さな音を捕捉している様です。
「……どうしたの?」
 マリィが小声で話し掛けても、ミツマタは暫く黙っていましたが、やがて
「……既に殺り合っておる様で御座る」
と答えました。
 マリィも懸命に耳を澄ますと、カーン……、ガガーン……、と、遠く遠くで金属を叩く、除夜の鐘の様な音が、微かに聞こえた様な気がしました。
「誰だろ。金属の方が打たれてるって事は村議の誰かかな……?」
 この村でリンゴ泥棒と互角以上に闘えるとしたら、真っ先に思い浮かぶのは六村議でした。
「……終わった様で御座る」
「え? もう?」
 再びマリィが聴覚に意識を集中させると、確かにもう何も聞こえて来ません。
「凄いね。本当に一体、誰なんだろ」 
「……………………」
「ミツマタ?」
「く、来るで御座る!」
「来る? その人がここに?」
 五感が鋭敏なミツマタは、金属体を短時間で斃した何者かが急速に接近するのを察知していました。月光を反射して光るその眼は、前方の上空を睨んでいました。
「空から? 飛べるって事は、隣のおばさんが先生って呼んでた沼畑さんちのお爺ちゃん?」
 同じ方向を見つめるマリィの目に満月が映りました。その望月の下の端が、つつっと下から現れた何か小さな物に遮られて僅かに欠けました。下から跳ね上がってきたらしいそれは、ほんの一瞬その位置に留まったかと思うと、自由落下に移行したらしく月の端から零れ落ちました。そのまま落ちて視界から消えるかと思いきや、落下と同時に、いやそれ以上の勢いで視界の中で大きくなって行きます。見る見る加速して迫り来るそれは、月光が逆から差しているのでシルエットとしてしか見えませんが、相当な大きさがあるのが分かりました。
「うわあああ! ホントに来るううううぅ!!!」
 マリィは異様な速度で迫る巨大な未確認落下物体に驚き、リンゴ畑の端にある戦中に祖母が掘った防空壕に向かって走ろうとしました。
 しかし、最初の一歩を踏み出した瞬間、落下物は予想よりも余り早く着弾していました。狙ったのか偶然なのか、ちょうど金属残骸の上に落ち、地響きに金属が軋みひしゃげる音が交錯する、大規模な交通事故の様な不快な轟音が耳を貫きます。
 マリィは半分は本能的に、半分はコケた勢いで、地面に伏せて身を守りました。飛び跳ねた小石がヘルメットに当たってカンカン言います。ミツマタは落下地点を予測できていたのか、落ちてくる前から一歩も動かず立っていました。
 残響と土埃が消えた時、マリィが見たのは前よりも増えている金属残骸でした。庭に置いていた残骸の上に落下して来たのは、同じくリンゴ泥棒の残骸だったのです。
「ゴ、ゴミが、増えた……」
 しかも今回のは大きく、普通乗用車くらいの大きさがありました。どういう形をしていたのかは分かりませんが、中央に貫通した大穴が開いており、そこから未だ最後に残ったガスが僅かに白煙となって立ちのぼっていました。穴からは更に、粘性の、でろりとした濁った液体が垂れていました。
「あ……」
 立ち上がったマリィが、降って来た残骸の上にいる者に気付きました。しかし不審さの余り、誰何すいかするのも躊躇われます。
 そこに立っているのは、小さな虚無僧でした。尺八2本を両手に握り、濃紺の法衣に袈裟を着ており、顎の下まで覆う深い編笠で顔は見えません。小さいと言っても、小柄とか言うレベルでは無く、身長が数十センチしかありません。
「コウゾ……いや……」
「知ってるの?」
「うむ、拙者の……」
 そう言おうとしたミツマタの声を遮り、虚無僧は両手の尺八で足元の金属塊を叩き始めました。
 ガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーン
 踏切の様に一定の間隔で力任せに叩く度、鼓膜が痛い程の大音響が出ます。
 ガーンガーンガーンガーン、ガンガンガン、ゴガガガドガガガズガガガ…………
 その一定のリズムが崩れ、高速乱打に変わりました。何を考えて何の為にやっているのか全く分かりませんが、とにかくうるさいです。
「ミツマタ! このお坊さん頭がおかしい! 救急車呼ばなきゃ!!」
 耳を手で塞ぎながらマリィが大声で言いました。119番しようかと思いましたが、電話線は昼間自分が切ってしまっていました。
「呼ばんで良いで御座る」
 ミツマタも大声で返事します。
「コウゾ、うるさいぞ」
 虚無僧の頭上の更に上から、そう声がしたかと思うと、虚無僧はピタリと乱打を止め、上を見上げました。
 マリィが声がした方を見ると、白と黒で染め分けられた人影が、ゆっくりと虚無僧の後を辿る様に降りて来ました。素の早苗よりも幾らか年下の、中学生にも小学生にも見える位の少女でした。一見すると剣道着の様な白い服と黒い袴に、真剣と思しき大小(太刀と脇差)から、マリィは村の実戦剣道愛好会のメンバーかと思いましたが、会にあんな若い会員が居るとは聞いた事がありません。防具は黒光りする胴しか着けていないのも、実戦剣道愛好会の装備と異なります。
 どの様な方法で浮いているのか、風は僅かに吹いているだけなのに、服も真っ黒な髪も、髪を後頭部の高い位置一つに結ぶ布も、重さが無いかの如く上に横に大きくゆっくりとたなびいていています。残骸の上、虚無僧の横に降り立つと、不自然ななびき方をしていた服や髪は、重さを取り戻した様にストンと落ち着きました。
「おお、庵殿。お久しゅう御座る」
「抜かったのう、ミツマタ。怪しい念を感じて来てみれば、うぬらの追っているリンゴ盗人。狩っておいてやったぞ」
「かたじけのう御座る」
「こっちも知り合い?」
「左様。洞狸庵どうり・あん殿、拙者らと同じ農狂戦士に御座る。元々は、拙者の主の子女で御座った」
「ミツマタの飼い主だった人の娘?」
「左様」
「……じゃあ150歳な訳?」
「人をババァの様に言うな」
「あ、ごめんね。大丈夫だよ、ロリロリだよ。誘拐されそうなくらい」
「……ミツマタ、うぬが招き入れた羅刹と言うはこれか?」
「うむ、林檎羅刹あっぷるマリィ殿に御座る。庵殿と違い普段は只の人間に御座るが、その時すら人間離れした益荒男ぶりに御座るのは、先だってご覧になった通りに御座る」
「……私を見た事あるの?」
 マリィがミツマタに尋ねましたが、庵がミツマタに「言わんで良いぞ」とキッと目で合図したので、ミツマタは
「ふむ、まぁ……」
とだけ言ってお茶を濁しました。
 マリィは庵をまじまじと見つめ記憶を検索しましたが、明確な心当たりは見つかりませんでした。
「それより案殿、そちらは……」
 ミツマタが、いつになく落ち着かない様子で虚無僧を見つめながら庵に言いました。
「こいつか? コウゾじゃ」
 ミツマタは更に何か聞こうとしましたが、口を開く前に、ミツマタと虚無僧が同時に体をピクリとわななかせ、夜空を見上げました。
 それを見て、マリィと庵も同じ方向に視線を動かしました。
「また来た様で御座る」
 ミツマタと虚無僧は2体目の飛来を察知していました。先程、虚無僧と金属残骸が落ちて来たのと同じ様に、上空から飛来する何かの影が徐々に大きくなって来ます。
 ミツマタは刀を、マリィはステッキを握り直し、庵は太刀を鞘ごと腰から外しました。
 マリィは、何を考えているか分からない虚無僧がふと気になって視線を移すと、虚無僧が一瞬腰を屈めて体に力を込めた瞬間でした。
 グァヴォォォッ!!
 と只ならぬ風切音を立てて虚無僧が真上に跳躍しました。そのとんでもない初速は、殆ど消え失せる様に見える程でした。同時に、足の下にあった金属残骸の山が跳躍の反動でスクラップの様に押し潰されます。虚無僧の隣に立っていた庵は、暴風を受けながら足場を失い転げ落ちました。
「大丈夫?」
 駆け寄ったマリィが、庵の右腕を掴んで立ち上がらせようとしました。袖が捲れて肘まで露出した腕を見たマリィは違和感を感じました。刀を持っているのでミツマタ同様の剛胆な剣客かと思いきや、ろくに筋肉が付いていない非力な腕でした。林檎ヶ丘村では、例え漫研部員や鉄道研究部員でさえも、もう少し筋肉があるのが当たり前です。
「構うな」
 庵は拒否しようとしましたが、身長と筋力に差があり過ぎるので、言い終えた時には殆ど引っ張り上げらる様な形で立ち上がらせられていました。
「それより上を見ておれ」
 庵がバツの悪さを振り切る様に声を上げて上空に顔を向け、マリィもそれに倣いました。
 ようやく輪郭が見える距離にまで迫ったリンゴ泥棒は、Vの時を横に引き伸ばしたブーメラン形をしています。それがV字の下端――一番尖った所を下にして、真っ直ぐに急降下してきます。そこに、数秒前に跳躍した虚無僧が、迎撃ミサイルの様に下から高速でぶち当たりました。
 衝突を目で確認したのから僅かに遅れて、マリィ達の耳にバギィという金属体が真っ二つに叩き折られる音がが伝わりました。2つの断片は、派手に白煙で螺旋を描きつつ回転しながら落ちてきます。
 先に落ちて来た1つ目はミツマタの程近くの地面に突き刺さり、そして間も無く落ちてくる2つ目は――
「ああっ! うちの屋根に!!」
白林邸を直撃する弾道を描いていました。
 マリィが二階の屋根の上にジャンプして上り、迎撃すべくステッキを両手に握り一本足打法の構えを取りました。金属体は落ちながらも傷口を塞ぎ、既にガスの噴出が止まっています。一撃で粉砕しなければ、家が甚大な被害を被るであろう事は明白でした。
「3……、2……、1……!」
 ガァン!
 マリィがタイミングを見極めフルスイングしたステッキは、狙い通り金属塊の中心を捉え、4分の1程を抉り取りました。しかし粉々に粉砕できる訳もなく、残りの大部分はマリィの足元の屋根に着弾し、屋根、二階の床、一階の床に大穴を開けて地面にまで到達しました。生まれた時から住んでいる家が、メキメキと音を立てて損壊する様は、マリィの精神を痛烈にえぐりました。
「い、家が……」
 白いガスを僅かに立ち上らせている屋根に開いた穴を、マリィが呆然と見つめていると、早くも傷を塞いだ金属体が地面から這い上がって3つの大穴を通り、再び屋根の上へと踊り出てきました。さっきまでと同じ、ブーメランが2つに折れた台形をして浮いてしていましたが、マリィの一撃で消耗した分やや小さくなっています。あと2、3回は攻撃を加える必要がありそうでした。
「屋根の仇……」
 マリィは遠い目をしてふらりとステッキを構え、駆け出しました。助走で勢いを付けてステッキを金属体の平たい面の中央を狙って振りましたが、当たる直前に金属体はスッと、地面と垂直な軸で90度回転し、台形の辺にあたる部分でステッキを受け止めました。台形の辺はオノの様に鋭くなっており思いのほか硬く、ステッキはめり込んだものの、ステッキの方にも浅い傷が付く程でした。
 それ以上押しても動かないので、マリィはステッキを引き、平面を打つべく再び振りかぶりました。
「2階の床の恨みぃ!!」
 それと同時に、金属体の裏表両方の平面から、新体操のリボンみたいな薄くてしなやかな刃が各1枚ずつ生え、マリィに切りかかりました。マリィは左肩と右太腿を刺され、傷から伝わる凍てつく様な冷たさに驚きつつも、最後までステッキを振り抜きました。しかし金属体は今度は地面と水平な軸で90度回転し、マリィのステッキをかわしました。ステッキは金属体の僅か下を凪ぎ、マリィと金属体を繋いでいた薄い刃を2枚とも引き千切っただけでした。
 思い通りに攻撃が通じない上、傷を負ったマリィはひとまず数歩後に退きました。
退け」
 後から聞こえた声にマリィが振り返ると、いつの間にか屋根に上って来ていた庵が立っていました。
「危ないよ」
 庵が腰から鞘ごと外した太刀を抜こうとしていましたが、マリィは場所を空けようとしませんでした。虚無僧の跳躍の余波で吹き飛ばされたのを立たせた時の様子からして、手負いとは言え自分の方がまだ役に立ちそうです。
「死ぬぞ」
 庵はそれだけ言うと、力を込めて胸の前で鞘から太刀を30センチ位だけ抜きました。ザリっと言う音と共に現れたのは赤茶色に錆びて朽ちた刀身。その刀身の表面に、墨汁の様な真っ黒な物がボコボコと泡立ちながら大量に湧き出して渦を巻いたかと思うと、刀身から金属体に向けて消防車の放水の如く勢い良く横向きに降り注ぎました。
 庵と金属体の間にいたマリィは、その黒い物に本能的に脅威を感じ、身を捻って避けようとしましたが、既に遅過ぎました。黒いほとばしりはマリィの左脇腹から右脇腹までを通り抜け、そのまま金属体へと向います。黒い物に貫かれた瞬間、マリィは腹に一切の痛みも感触も感じず拍子抜けしましたが、次の瞬間には魂が抜けた様に全身全霊から全精力が消失し、視界が傾き始めていました。
 その視界の中で、黒い物は金属体へと迫り、金属体はマリィの攻撃を避けた時の様にその場で回転して避けましたが、それで避けられたのは最初の僅かな部分だけでした。黒い物のうち避けられた分は180度方向転換して背後から直撃し、続く部分は正面からモロに浴びせかけられました。黒い物に触れると、金属体は一瞬で輝きを失って全面に茶色い錆が吹き、数年放置された鉄屑の様になり果てました。浮いている力を失ったのかガランと音を立て、錆の粉を散らしながら屋根の上に横倒しになり、瓦にぶつかった部分がボロリと欠け穴が開きました。そこから出て来たのはガスではなく、ドロリとした腐れた汁。腐臭を放ちながらゆっくりと屋根の上に広がり流れ、屋根に開いた穴と雨樋へと流れて行きます。
 それを見届けた時には、屋根の上に崩れ落ちていたマリィの意識は殆ど消えかけていました。貫通された腹から下の感覚が全く無い上、腹から上も一切の力が入らなくなっていた為、自分の身に何が起こったのか分かりませんが、どうやら腰の部分が通常有り得ない方向に捻じ曲がっている――と言うより破滅的かつ盛大にひしゃげているらしいのだけは、倒れ込み方の不自然さで分かりました。横隔膜も肋骨も動かないので息すら出来ませんが、喉の奥から異様な腐臭が少しずつ溢れ出て来ているのが感じられました。しかし、それを不可解だと思うエネルギーもマリィの脳には既に無く、心臓が動いているかすら怪しい状況の中、黒い物に触れて10秒と経たぬ内にマリィの意識は消失しました。

「マリィ殿」
 ミツマタが話しかけても、返事はありませんでした。
「庵殿、やり過ぎで御座る。仲間に御座るぞ」
「退けと言うたのに退かんのだ。治したのだから文句なかろう」
 庵の一撃により金属体が一瞬で錆び、朽ち、腐れ果てた様に、マリィも腹部を中心とした広範囲が著しく衰弱し、壊死し、腐敗にまで至り、急性多臓器不全で危篤に陥りました。その直後、金属体の片割れを片付けて屋根の上に様子を見に来たミツマタが、慌てて庵にマリィの回復を行わせたのでした。
 今、マリィは天井と床に穴が開いた1階の居間に寝かせられており、ミツマタと庵が枕元に座っています。
「しかし、未だ意識が戻らぬで御座る……」
「心臓は動いた。そのうち気が付くであろう」
「否、問題はそこでは御座らぬ。一度心の臓が止まると、生き返っても頭がやられている事があるそうな。マリィ殿が益々もってパーになったら何とするで御座る」
「何と、パーとな」
 二人は、かつては只の武士の家に居た、只の猫と只の娘でした。

 昔々、江戸時代も後期の頃、洞狸八百乃進一宗どうり・やおのしん・かずむねと言う侍がおりました。侍と言っても最下級で給料は非常に安く、それだけでは到底生活出来ないので、普段は農作業に従事する、いわゆる郷士でした。
 八百乃進は武士としてのお役目よりも、農業の方を強く愛していました。普段は周囲の農民達に交じり仲間として分け隔てなく付き合い、畑仕事に精を出す働き者のお父っつあんでしたが、農業の邪魔となる存在に対しては容赦が無いどころか熱狂の余り手段を選ばなくなる所があり、農民達は薄々と、こいつはおかしいと感じていました。
 稲に実った米を食い荒らすスズメを太鼓や大声で追い払う「鳥追い」が、昔の農業では良く行われていました。祭と融合し伝統行事として現代にまで残る地域もあります。しかし、あくまで追い払うだけなので、その効果は限定的なものに過ぎませんでした。
 ある時、鳥追いでは生温いと、八百乃進が矢でスズメを片っ端から射落し始めました。小さくて動く生きたスズメを矢で射るなど、容易に出来る事ではありませんが、八百乃進は偏執的な情熱で短期間の内に命中率をメキメキ上昇させ、ひたすら射落とし続けました。大量の矢を買う為に大して豊かでも無かった家が益々傾き、日の出ている間はずっとスズメを追っているので田畑は維持管理が出来なくなり荒れ果ててしまっても、八百乃進は一心不乱にスズメを撃ち続けました。
 そして果たして、一夏の間に本当に村中のスズメを一掃してしまいました。
 しかし、その結果は皮肉なものでした。スズメが食べていた害虫が、天敵がいなくなった為に大量繁殖してしまい、村は未曾有の大凶作に見舞われました。
 それでも八百乃進は後悔しませんでした。そればかりか、農業の敵であったスズメを退治出来た事に満足していました。そして今度は害虫を退治する方法を考え始めました。
 当時は、水田に油を撒くという害虫駆除手段が良く行われていました。虫は呼吸する穴に水が入らない様に油膜で保護しているので、その油膜を除去すれば窒息します。水田に撒いた油が、虫の油膜を流し落とすのです。しかし、八百乃進はそれでは生温いと考えました。
 翌年、村で一斉に水田に油を撒いていた所、突如全身に火の付いた松明を括り付けた八百乃進が絶叫しながら走り出て来て、油を撒きながら田畑に火を点け始めました。
 その結果、害虫諸共、村中の田畑が灰になり、村の農業は壊滅的打撃を受けました。
 こいつは狂っている――村の面々は強くそう思いましたが、邪魔すると何をされるか分からないので何も出来ずにいました。
 最初の動機は、生活の為に農業の敵を討つ事だった筈です。しかし、「生活の為に」という目的が忘れ去られ、「農業の敵を討つ」という手段こそが目的と化していました。農業の敵を討つ為ならば、たとえ生活や農業が犠牲になろうと一顧だにしない狂える農夫――。それが、農狂戦士の源流でした。


 Bパートに続く