ドイツ文学とドラえもんの奇妙な類似

(バカレポート)

 

 

 これは、私が大学のドイツ文学授業に提出したレポートを、ちょっと改造したものです。時間割を埋める為に取った、完全に専門外の科目なので(専門は社会・社会心理系)、思いきり変なレポートにしてみました。課題は「授業で扱ったドイツ文学作品から1つを選び、それについて考察せよ」でして、私が選んだのは「シャミッソー」作の『影をなくした男』という小説です。図書館に行って岩波新書コーナーでも探せば見つかりまする。それにしても、授業の為に毎週1冊ドイツ文学の本読んで行くのは辛かったです……。

 


 

「影をなくした男」と「ドラえもん」の奇妙な類似

 

 この、シャミッソー作の小説「影をなくした男」は、ふとした事から影を失ってしまった男が数奇な運命をたどる物語であった。

 「影」とは、全ての人間が何の疑問も無く必ず普通に持っている物であるが、もし仮に影が無くても、別に生存するには困る事は無い。しかし、万人が必ず持っている物が無いと、ただそれだけで周囲から異様な奇異の目で見られる事となる。主人公シュレミールは、影を失った途端、世間から白い目で見られてしまい、それから逃れる為にそれ以降ずっと隠れる様な生活を送る事となった。

 彼が影を失うきっかけとなったのは、知人の家に人間に偽装して仕えていた悪魔から、無限に金貨の出て来る袋と、シュレミールの影との交換を持ちかけられた事から始まる。シュレミールは目先の利益だけしか目に入らずに、悪魔の条件を飲んで自分の影と袋とを交換してしまう。しかし影を失った瞬間、別に人間が生きていくのに影が無くても困らないにもかかわらず、周囲からは余りにも異様な奇異の目で見られてしまう。そして彼は世間の目を徹底して避ける生活を送る事となる。やがて彼は悪魔と再会し、何とか影を取り戻そうとするがそれも叶わない。死後に魂を渡せば影を返すと悪魔から持ち掛けられるが、かつて悪魔が使えていた知人の末路を目の当たりにしたシュレミールは、神の名を唱えて袋を投げ捨てる。それでも遂に影は戻って来なかったが、それきり悪魔とは会う事は無かった。その後、偶然たまたま1歩で7里を歩く靴を手に入れたシュレミールは、植物学者として世界中を回ってその後の人生を充実したものとして過ごした。

 

 この、1814年の西欧で書かれた説は、「国籍」という、影と同様に皆が当たり前に持っていて、生存の為には無くても平気だか、無いと皆に白い目で見られる物を失った作者自身の思いが込められている。フランス生まれでありながら政治的な理由でドイツに移り、そこで、戦うドイツとフランスの間で揺れ動いた作者シャミッソーが、シュレミールの影を失う体験に重ね合わせて書いたものだと言われる。

 

 しかし私には、幾つかの点で日本の漫画「ドラえもん」に酷似している様に思えてならなかった。

 

 まず、ドラえもんの「ひみつ道具」に通じるセンスを強烈に感じさせる物が沢山登場する点。お金が無限に出てくる袋、1歩で7里を歩く靴、着ると姿が見えなくなる隠れ蓑、……これらはまさにドラえもん「ひみつ道具」のセンスそのものである。また、影が悪魔によって「剥がされ」たり「自分で移動したり」というのも、非常にドラえもん的である。「ドラえもん」の中でも、ひみつ道具の効果や副作用により、影が主の足元を離れたり、自分の意思を持って自律行動を起こしたりする事は間々見受けられる。そして何より、悪魔がそういった不思議な物を無尽蔵に取り出すのは、ドラえもんと同じく(四次元)ポケットからである。

 そして、主人公が道具のメリットに目がくらみ、道具のデメリットにしっぺ返しを食らう点。「ドラえもん」では、毎回毎回のび太がドラえもんに道具を出してもらい、最初はそれで上手く行くが、やがて調子に乗って濫用して滅茶苦茶な事態なるというオチが付く事が多い。「影をなくした男」でも、シュレミールは袋のメリットに目がくらみ、それを手に入れる代価――影を失う事――に、後に大いに苦しめられる事となる。

 更に、主人公の依存的性格。のび太の依存的性格は今更言うまでも無いが、シュレミールの場合も、影をなくして隠遁生活を送る時は召使のベンデルにべったりと頼り切った生活をしている。2人の間の熱い友愛の情も含めて、のび太とドラえもんとの関係には、シュレミールと召使ベンデルとの関係の影が見て取れる。

 また、破天荒なストーリの割には意外に明るいハッピーエンドも、両作品の共通点である。「ドラえもん」では、今は駄目人間であるのび太は、なんだかんだ言ってそこそこの将来をたどる事になっている。「影をなくした男」のシュレミールも、最初は情けない性格に受難の境遇であるが、例の靴を手に入れて以降は、バイタリティー溢れる植物学者となって世界中を精力的に駆け巡った。

 付け加えておくならば、シュレミールが7里を歩く靴であちこちを探索中、じっくり調べたい時に1歩で7里を歩いてしまい調べたい対象を見失わない様に「靴の上にスリッパを履き」更に、「猛獣に出会ったらとっさにスリッパを投げ付けて逃げ」ている。このスリッパ描写は、笑いを誘う目的を持ったジョークなのか、それとも全くの天然センスなのか、作者の意図を確認する事は出来ないが、少なくとも今の日本人にはある程度ジョークと解釈されると思って良いだろう。このスリッパジョークのセンスの突拍子の無さも、「ドラえもん」初期の未だメジャーでなかった時期の破天荒なギャグセンスに非常に酷似している。

 

 「ドラえもん」の作者である藤子・F・不二夫は、「影をなくした男」の作者シャミッソーの死後に生まれた人物である。2人の間に接触はありえない。考えられる可能性としては、藤子・F・不二夫は比較的若い時期に「影をなくした男」を読んでおり、その時受けたインスピレーションが「ドラえもん」を描くにあたって何らかの影響を及ぼしたとか思うのは考えすぎでしょうか先生。