魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
 第10話「コースロープを取り返せ!」
   原案:九条組  小説化:蓬@九条組

 夏人が再び目を覚ました時には、日が少し傾いていました。さっきよりも強い鈍痛がする胸を押さえながら起き上がると、コツンと頭が天井に当たりました。
「んんー? ん!?」
 気絶する前よりも家が更に歪み、寝室の天井が下がって来ているのでした。それに加え、寝ていた所のすぐ側に箪笥が倒れていました。夏人は命の危険があった事を感じ、這って縁側まで移動すると、庵が座って庭を眺めていました。猫二匹も一緒です。庵は目に見えない何かを感知出来ているのか、白林家の第一子が埋まっている所を無言で見詰めていました。
「俺が気を失ってる間に地震でもあったの? 家が益々ヤバくなってるんだけど」
「うぬの妹と猫供が暴れた結果じゃ」
「妹じゃなくて遠い親戚だってば」
「似た様なものであろう」
「いや最近、というか昔から早苗ちゃん俺を虎視眈々と狙ってる様な気配があるから、妹とか言うと近親ナントカじみた変な違和感あるからやめて。
 ところで早苗ちゃんは?」
「何処ぞへと出向いて行ったぞ」
「火事現場かな。
 しかしこの家、古い木造だとは思ってたけど、人間と猫が暴れて壊れるほど脆いのか……」
 早苗が庵にも気絶ごっこを強行しようとしたのをミツマタが止めに入り、コウゾは良く分からないけど面白そうなので参戦し、早苗は応戦すべくマリィに変身して薙刀を振り回し、三者による大乱闘が家の中での行われた結果、柱や梁が折れたりして家が更に傾いたのでした。気絶したままの夏人が巻き添えにならなかったのは全くの幸運によるものでした。数分間争った末にマリィは庵に気絶ごっこを施すのを諦めて、半鐘による招集に応じるべく外出して行ったのでした。
「この猫供は、な……」
 庵が視線を庭に向けたまま唐突に話し始めました。
「玉を抜かれておる」
「へえ、ちゃんと虚勢手術して飼ってるんだ。偉いね」
「父上が刀でこう、スッと切れ目を入れて、ニュルっと抉り出した」
「……動物病院でやってやろうよ」
 痛さを想像して内股になりつつも夏人は猫達に繁殖制限が施されている事には感心しました。早苗の祖母が目に入る犬猫を片端から殺していたので、かつての林檎ヶ丘村では犬猫の姿を見る事自体が稀でした。祖母が行方不明になり村でも犬猫を飼う事が可能になったものの、田舎だから野良猫野良犬が大量に生まれて大量に野垂れ死んでも気にしない土地柄だとばかり夏人は思っていました。
「故に子を成せぬ。実を結ばぬ徒花あだばなじゃ」
 庵が夏人の方を振り向きました。その目は、二度目に気絶させられる前に見たのと同じ、子供らしからぬ哀れみを湛えていました。
「だが徒花だとて、この猫供が生きておる事を誰が咎めるか?」
 何か話が微妙にズレているらしい事に夏人は感付きました。
「人間であれば、どいつもこいつもが好き勝手な事を思い、あるいは口を挟むであろう。
 だがそんな時は、この猫供を思い出せ。徒花だろうが何一つ憚る事なく、胸張って生きておるこの猫供を、な」
「あ、ああそうだね……」
 猫の話を通じて、自分に何かを遠回しに言おうとしているのは分かりますが、要領を得ません。詳しく聞き返そうかとも思いましたが、庵の語り口の真摯さにそれも躊躇われ、何も言わず頷いて聞いていました。
「帰る」
 そう言って庵は立ち上がり、コウゾを連れて家の中を通って玄関へ向かいました。背が低いので、下がった天井の下も身を屈めなくても通れます。
「気を付けて帰ってね。またどうぞ」
 夏人は見送ろうと這って玄関まで行きましたが、もう庵の姿はありませんでした。履物を履く音は聞こえたものの扉を開ける音がせず、夏人が玄関から外に出て見ても、庵とコウゾの姿はどこにも見せませんでした。

 マリィが外に出ると、狼煙は村役場裏手の森から出ていました。人目に付かない様に電信柱の上をジャンプしながらそこまで行くと、村長と土矢村議と役場職員のお姉さんが居ました。赤森市在住の筈のマリィが半鐘と狼煙に気付き、しかもこんな短時間で到着した事に、役場職員のお姉さんだけは矛盾を感じましたが、別に興味が無くて心底どうでも良いので指摘しませんでした。
「いやーマリィさん、よぐ来てくれたっぺ」
「今日は何の用なの?」
「ここに道路作る予定なんだけんどもな、ちょっと掘ったら何か出て来たんだべさ」
「何かって?」
「古ーい貝殻とか壷のカケラみてぇのがチョボチョボと。もすかすたら、遺跡かも知れねべ」
「へー、凄いじゃん」
「いんや、それがそうでねぇんだべさ。確かに珍しいけんど、遺跡だどしたら道路が作れなくなっつまうんだ。キッチリ調査とか保存とかしなきゃならなくなるんだべ。だども、そんで観光客が来るでもねぇし、金が入る訳でもねぇし、なーんもいい事なしだんべ」
「やってみないと分からないんじゃない?」
「んー、実際やってみたんだべさ、何年か前に」
 村長の言葉を役場のお姉さんが補足します。
「村おこしとして、遺跡と猿人出没を捏造した事があるんですよ。林に貝殻とか小学生が図工で作った縄文土器を埋めて、更に猿の着ぐるみまで特注して。
 その時は新聞とか雑誌記者が2〜3度くらいは来たんですけど、観光客なんて全然で。まあ、そもそもこの村は宿泊施設も土産屋も何もないんで、仮に観光客が来ても日帰りでしょうから、村の税収が増える訳も無いんですけど」
「ほんで結局、学者先生が来て貝殻と土器を見たら、その場でバレっつまっただ。やー、あん時は県庁に呼び出されて、そんりゃもう、エライ怒られたっぺや。はー」
「その時からです。県から送り込まれて来る小中学校の先生が問題ある人ばかりになったのは。
 それにしても、捏造した当初は小さな三面記事にしかならなかったのに、バレた時は一面に載りましたよね。赤森新聞の」
「んだ。前にも後にも、この村が新聞の一面に載ったんは、あの時だけだべな」
「あと、助役が猿人の着ぐるみの頭を脱いだ所を週刊下衆に撮られましたよね」
「んだ。それまでローカル紙の赤森新聞にしか載った事なかったんに、いきなり全国販売の週刊誌に大醜聞デビューだっぺ。『遺跡・猿人捏造の寒村、林檎ヶ丘村長の後援会組織と下半身に渦巻く猿人よりもアニマルな闇とカネ』って山手線の中吊り広告になって東京中をぐーるぐーる…………」
「と、東京中をぐるぐる!? う、羨ましい……って村長、ねえ村長、涙と鼻水とヨダレがダダ漏れになってるよ」
「そそ、そんりゃー、ゼ、ゼニの事とかは、ホンのちっーとは本当の事だけんども、そげに大げさに嘘で膨らまして書くなんて……。ひ、酷いっべやサオリ君……」
「村長村長! 今度は尿までダダ漏れになってるよ」
「それ以来、村長はあの記事や、それを書いた篠崎サオリさんの事を思い出すと、この体たらくになってしまうのです。ペンは剣より強しとは将にこの事」
「オ、オラが老人会婦人部の全員と密通して票を集めてるっだどか、そんで、選挙前になっとオラが即身仏みてぇに痩せ細って腎虚になるだっとか……、そいで変テコな性病が老人会に蔓延してるだどか……」
「うわあ村長! 今度は大腸菌を主成分とする言葉に出すのも憚られる物がダダ漏れになってるよ!」
 村長が役に立たない状態になってしまったので、土屋村議がショベルカーに乗ったまま前に出て来て場の進行を引き継ぎました。
「そういう訳で、この遺跡をほっくり返して無かった事にするから手伝っておくれ。大型特殊免許は持ってるかい?」
「持ってないよ」
「じゃあ小型特殊は? 普免で良いんだけど」
「ないよ」
「仕方ないねえ、それじゃ手持ち削岩機だね。そんなんじゃ重機オペレーターどころか農家の嫁にもなれないよ」
「なる気ないもん」
 全身の穴という穴がフルオープンになった物言わぬ村長を地べたに横たえて放置したまま、遺跡らしき場所に対する徹底的な隠蔽工作が始まりました。土屋村議がショベルカーで大きく掘り返し、要所要所をマリィが激しく振動する手持ち削岩機で掻き回し、お姉さんがシジミ汁の残飯と陶器の破片をばら撒きます。
「やややっぱぱりりり勿勿勿体無いななななああ」
「でも道路を作らないとなると、農閑期に村の皆を工事で雇ってやる事も出来なくなるんだよ。村には農業だけで食ってけない家も多いし、遠くまで出稼ぎに行ける人ばかりでもないしね」
「へへへへへへえーーー」
 そうして1時間もしない内に、何らかの遺跡だったかも知れない所は、古代と現代のゴミがクソミソに混じり合い、一見したら汚くて凸凹しただけの地面になり果てました。
「こここれブブブルブルルルしして面白ろ白ろろろろいいい」
「そうかいそうかい。将来職にあぶれたらうちの社の土木作業員にでもなればいい」
「マママッササージ器みみたたたいいいい。
 そそ村ちょちょ長ー、そそんなへへ変な格格好で寝寝寝てて肩凝らららななないいいい?」
「あ、コラ人に向けるんじゃないよ」

 早苗が家に帰ると、夏人が縁側で座っていました。この村に居ると夏祭の光景がフラッシュバックするのか、目を閉じて頭を抱えていました。
「ただいまー」
「おかえり……って顔に血が付いてるぞ」
「いやー、村長の肩を地球用マッサージ器で揉んだら、僧帽筋が赤い超新星爆発を起こしちゃって。
 で、学校のプールに寄って血を落とそうと思ったら、コースロープが盗まれたからって使用中止になってたの。
 水着とかが無事で、わざわざコースロープ盗むくらいだから、すっごくレベルの高い変質者だろうって。犯人がまた現れたら捕まえるって、校長先生が草刈鎌と竹槍持ってワクワクしながら意気込んでたよ」
「それ変質者じゃなくて、単なる窃盗じゃないの?」
「違うよ、コースロープが大好きな変質者だよ。世界中にはそれこそ想像も付かないような色んな変質者が沢山居て、アメリカには車に本気で興奮する人達だって居るんだよ。排気口に改造を施してね……」
「……そんな事どこで覚えてきたの?」
「地理の授業。社会の先生が鬱病で休んでるから校長先生がやってるの」
「ちょっと電話借して。県の教育委員会に通報するから」
「駄目ー! そんな事したら校長先生今度こそクビになっちゃうー!
 ところでそのビールとか何?」
 夏人の横には、ケース一杯の瓶ビールやら、変な栄養ドリンクやらが山積みになっていました。
「ああこれは、早苗ちゃんが留守の間に、通り掛かった村の人達がくれたんだよ。俺が盆踊り以来調子悪いのに同情してくれて、何だか色々置いていってくれたんだ。田舎の村だから、こんな(心の)病気にはみんな全然理解がないとばかり思ってたんだけど、そうでもないんだね。どれも頓珍漢でズレた物ばっかりだけど」
「そうだよ。みんな知ってる人には優しいよ。知らない外人を見かけたら速攻で110番するけど」
 夏人は、山積みになっている品について一つ一つ、早苗に説明して行きました。

 赤城村議は県内の病院一覧の冊子をくれました。「でも開いてみたら泌尿器科と性病科のページが折ってあるんだよ。今の俺が行くとしたら心療内科あたりなのに、先生も意外とそそっかしいな」
 土矢村議は夫の所持品だという栄養ドリンクを置いていってくれました。でも良く見たらマムシやオットセイのエキスが配合された、特殊歓楽街に突貫しようとするオヤジが飲む様なドリンクでした。
 桑田村議が水槽ごと生きたミドリガメを持って来て「食え」と言うので、何のつもりだか尋ねるとスッポンと似たようなもんだから滋養になるだろうと孫の飼っている亀を持って来たとの事。ミドリガメは食用じゃないし、何より孫のペットを食うのは駄目だろうと夏人が強く拒否すると、ぶつくさ言いながら持ち帰ったそうです。
 最も激しく同情していたのは照島村議でした。夏人に年を尋ね18歳と聞くと、肩を掴んで揺さぶりながら「18って言ったら盛り……!」と涙を流して同情し、瓶ビール1ケースを置いて行きました。夏人は、未成年なんでアルコールは飲めないと言いかけましたが、余りに重篤な同情ぶりにそれも躊躇われ、大学のサークルの20歳過ぎの先輩にあげれば良いと思い、礼を言って受け取りました。
 役場職員のお姉さんは、握力を鍛えるバネ器具をくれて行きつつ、たとえ障害を被っても肉体の他の部分を鍛えて補えば良いと諭しました。そして口止めした上で、土矢村議が下半身不随だと言う衝撃的な事実を明かしました。幼少時の事故で脊椎を損傷し、以来ずっと下半身は動かなくなってしまったものの、車椅子では健常者に勝てぬと、24時間365日あらゆる重機を乗りこなし健常者以上の能力を発揮し、今や村議長の座に昇り詰め村の土木利権を牛耳るまでになったと言うのです。逆境を克服した障害者のサクセスストーリーに、夏人は激しく感動して思わず涙が出てしまいました。
 宇鉄村議は上野まで行って来いと青春18きっぷをくれました。「上野?」「病院があるだろ有名な病院。よく雑誌広告に載ってるトックリセーターのあんちゃんの」「はあ?」「あの病院、切るだけが能じゃないんだよ。昔、カミさんの出産に立ち会ったら、血みどろのあんまり凄い光景にショック受けてあんたと同じになっちゃってな。電車の運転中に投身自殺があっても平気だったのに、我ながら情けない。で、近場だと知り合いに見られそうで嫌だから、旅行がてら上野まで行って治療したんだよ」「?」
 沼畑村議は手製の木彫りダイシャーク菩薩像をくれようとしましたが、夏人はそれだけは全力で拒絶しました。

 日没前に夏人は帰りました。やがて深夜10時頃になると、早苗は出掛ける準備を始めました。
「何処に行くで御座るか?」
「学校。犯人捕まえるまで校長先生が見回りするって言ってたから行ってみるの」
「よりにより、この様な真夜中に?」
「どうせなら夜の方が面白そうじゃん。犯人来そうだし」

 同じ頃、夏人も林檎ヶ丘中学校への侵入を試みていました。一人ではなく、唐草模様の風呂敷で大荷物を背負った小柄な人が一緒です。
「夏人ォ、こんな真夜中に中学校に入り込むなんてワクワクするなあ」
 その浮かれた言葉を聞いて、緊張感に張り詰めていた夏人の顔が一気に泣き顔へと変形しました。

 この日、早苗の家から去った夏人が、大学の寮に帰る前に祖父母の家に立ち寄ってみると、東京に居る筈の両親が帰省していたのです。
 元々、夏人はこの祖父母の家で生まれ、祖父母と両親と2人の兄と暮らしていました。夏人が高校に上がる時、「父親の仕事の都合」で両親と3人の息子達は東京へと引っ越して行きました。「仕事の都合」とは勤め人である父親が東京支社へ配置転換になったからなのですが、その配置転換の原因は父親がちょっとした性犯罪を起こしたからなのでした。
 ある時ふと、スカート捲りというコンセプトに対して興味が沸き、スカート捲りで新聞に載る事は可能か試してみたくなった彼は、近所の幼稚園児→小学生→中学生→高校生→大学生→人妻→婦人会役員→議員のオバちゃん、と徐々に危険度の高いターゲットにシフトしつつスカート捲りを実行して行ったのですが、相手がいずれも顔見知りであったからか、あるいは彼自身の裏表の無い特異な人徳の為か、いずれも笑い事で済まされてしまい、一向に新聞沙汰にはなりませんでした。痺れを切らした夏人の父は、身の危険を顧みず勇敢にも最寄りの自衛隊基地に侵入し、女性自衛官に対するスカート捲りを敢行し逮捕され、遂に新聞に載る事に成功したのです。そこまでは良かったのですが、勤務先で問題となってしまい、遠い東京へと左遷される事になってしまいました。それこそが、夏人一家が祖父母を残して東京へと引っ越して行った真相です。
 今でも両親と2人の兄は東京に住んでおり、夏人だけが農大へ通う為に赤森県に戻って来たのです。同じ町内にある農大へは、祖父母の家から通う事も可能であったのに、夏人がわざわざ寮に入ったのは、父親が成し遂げた負の偉業を恥じる余り、近所の人達に会いたくないからでした。しかし、生真面目な夏人こそ父親の行いを気に病んでいましたが、近隣住民は今も昔も夏人の父の事を、まるで近所の子供でも見守る様な微笑を浮かべながら話題にするのでした。

 その父親が、夏期休暇を取って夫婦で帰省していたのです。帰省自体は何もおかしくないのですが、問題は父親がコースロープで編んだハンモックで昼寝していた事でした。まさかと思い問いただすと案の定、夜中に林檎ヶ丘中のプールから無断で持って来たとの事。若い中学生と同じ水に浸かっていたコースロープでハンモックを作り、暑い夏の日に昼寝したらどれくらい幸福になれるか試してみたかったと言います。子供の様にピュアで旺盛な知的及び性的好奇心の赴くまま、地平線の彼方まで突っ走ってしまう父親の性格は、今でも健在でした。被害者にトラウマを残さないライトなオモシロ性犯罪を幼少時から繰り返し、地元で「心優しい性犯罪者」と呼ばれて長年親しまれていた信頼と実績は伊達ではありません。母親と祖父母は「お父さんったら良い年して少年の心を失わないんだから」「まったくこいつぁ、3歳くらいの時から馬鹿な事ばっかりしてっからに。きっと100歳になっても治らんど」「んでも人様を手籠めにするよんな真似は絶対しなかったさな。そんだけは立派さね」とか言って微笑ましく見守っていました。
 夏人はそんな父親を何とか説得し、深夜の林檎ヶ丘中学校に父親を連れてコースロープをひっそりと返却しに来たのでした。校長が犯人探しをしていると早苗から聞いていましたが、流石に深夜なら手薄であろうと、夏人は踏んでいました。
 金網を乗り越えて校庭に侵入し、プールのある方向を夏人が確認していると、父親がソワソワしながら口を開きました。
「なあ夏人、この中学校って柔道場とか畳の部屋あるかな?」
「プレハブの柔道室があるらしいけど……今度は畳を盗み出すとかやめてよね」
「盗み出すものか。ちょっと入るだけだよ」
「入るのもまずいでしょ。カギかかってるだろうし」
「水虫菌は天下の回り物って言うじゃないか。柔道とかの畳を介しても水虫って伝染るんだよ」
「ねえ、聞いてる?」
「父さん、中学生のイキのいい水虫菌を伝染うつされてみたくなってな」
「バカな事言ってないで、プールはあっちだから行くよ」
「スマン夏人、父さんはもう、もう我慢できない!」
「ちょ、ま、待って父さん!」
 父は暗い中学校敷地の奥へ駆け出しました。夏人は追いましたが、父は大荷物を背負った中年とは思えない速度を出し、すぐに見えなくなってしまいました。
 夏人は泣きながらプレハブ柔道場を探しました。プールの位置だけは父親から聞いていましたが、学校敷地に入るのは今日が初めてなので柔道場は位置も外見も見当が付きません。出鱈目に歩いているとプレハブの小さな建物を見つけました。窓があるものの曇りガラスなので、中が柔道場なのか分かりません。しかし窓も出入口も鍵が閉まったままなので、父はここには居ないようです。
 この場で父親を待つか、それとも他の場所に探しに行くか、窓の前に立って考えていると、ヒタヒタと早足で近付いて来る足音が聞こえました。父かと思い、足音の方を向くと、数発の白い弾丸が自分に飛んで来る真っ最中でした。夏人が咄嗟に身をかわすと、白弾の幾つかがガラスをぶち割って派手な音がしました。
「何か居たぞー」
 咄嗟に夏人が近くにあった焼却炉の陰に隠れた直後、そう大声を上げながら割れた窓の所に現れたのは野球部長でした。するとその声に呼応する様に、ブレハブの裏手でエンジンがかかる音が、次いでギュラギュラゴキュと重機の動作音がしたかと思うと、プレハブが紙箱を折り畳むみたいにベシャンと一息に潰れました。
「ギャー」
「おお悪い悪い」
 野球部長がプレハブ残骸に埋まったらしい悲鳴と、土矢村議の声が聞こえましたが、夏人は振り向かずに反対方向へ逃走しました。

 昼間に校長一人が張り込んでいるだけだろうと思っていた夏人は、考えが甘かった事を思い知らされました。プールにコースロープを戻すのは無謀に思えて来ました。とにかく父親を見つけたらその場でコースロープを放棄させて、一刻も早く学校敷地から連れて逃げ出そうと考えながら、物陰から物陰へと敷地内を進んで行きました。

 同時刻、早苗も学校に来ていました。リンゴ泥棒の気配を学校の方に感じたと言うミツマタも一緒でした。体育館の鍵を勝手に開け、窓から屋根の上へと登っていました。ここなら2階しかない校舎の屋上よりも高く、学校の敷地内を一望できると思ったのです。
「あ、暗くて見えない」
「人間は不便で御座るのう。それより、彼奴らが近付いておるで御座るぞ」
「リンゴ泥棒? 校庭にリンゴの木が1本あるけど、弱ってて実はつかないよ」
 とか話していると、上からパチンコ玉が大量に降って来ました。
「痛ててててててててて」
 早苗が頭蓋骨や鎖骨に直撃を受けている間に、ミツマタは半径1.5メートル以内に降ったパチンコ玉を全て斬っていました。それらは僅かな霧を噴き出しながら、カマボコ形の体育館の屋根から転げ落ちて行きました。ミツマタの射程範囲に入らなかった玉は、重力に逆らい屋根の傾斜を登り一つに集合し、大雑把な人型をなしました。
「今宵はこの一体だけの様で御座るな。丁度良い、庵殿から貰い受けた例の薙刀を試してみるが良いで御座る」

 ザボーーーン……
 静かな夜の学校に、大きな水音が立ち上がり、また直ぐに元の静寂が戻りました。
 夏人は、プールの方向から聞こえたその音に、父親が何かをしたのかも知れないと直感し、プールへと向かいました。
 辿り着くと、父親が金網の外側からプールの中を覗いていました。
「おお夏人。柔道場見つけて畳踏んで来たぞ。足をビニールで包んでガムテープで密閉したから、これで来週にはジュクジュクの水虫が出来るぞ」
「そんなのどうでも良いから、コースロープ置いてさっさと帰るよ! 何人か犯人探しに学校に来てるんだよ。しかも武装して。あんな大きな水音なんか立てたら見つかるよ。石でも投げ込んだの?」
「いや、父さんもあの音を聞いてここに来たんだ。中学生が夜中にこっそり泳ぎに来たのかと思って。夜中にこっそりなんて言ったら、一定確率で全裸で泳いでそうじゃないか」
「………………」
「でも残念な事に、全裸中学生じゃないみたいでな。せめて半裸中学生でも良かったのに、それでもないみたいでな」
「え? 今プールの中に誰か居るの?」
「ああ。でも暗い上に、父さん年のせいではっきり見えないんだ」
 夏人はプールの中に居る人物を見極めるべく、水面を凝視しました。
「夏人、お前は若くて目の良い内に、色んなものを見ておくんだぞ。父さんが若い時に覗き残した、数々の無念を継いでおくれ」
「継ぎません」
 中の誰かは既に自分達に気付いているのだろうか、もしそうなら既に言い逃れ不可能な状況ではないか、出来る事なら自分と父の身内である早苗であってくれ……、そう念じながら月光だけを頼りに水面を睨む夏人の目に映ったのは、全体が赤茶色い人型の物体でした。あちこちから霧が噴き出ていています。水面に浮かびながら、岸を求める様に手足らしき物をゆっくりと苦しげに動かしています。
「……な、何だアレ……」
「どうした夏人? 涅槃が見えたか?」
「何かが溺れてる。助けないと」
 夏人は金網を登りプールサイドに入りました。近付いて見ると、金属の塊の様でした。錆びて表面は鱗の様にザラザラしており、夏人の知るいかなる生物にも似ていませんが、確かに蠢いています。
「……ひ……」
 夏人は、生物なら助けねばと言う義務感を必死に駆り立て、プールサイドから恐怖に震える手を差し伸べました。

「マリィ殿、薙刀の刃を寝かせて敵に当ててどうするで御座るか」
「だってこんな長い刃物なんて使った事ないんだもの」
 マリィは初めて実戦で使う2m超の薙刀をバットの要領で振ってみた所、目標に刃の腹から当ててしまいました。その結果、リンゴ泥棒は斬られないままに体育館屋上から跳ね飛ばされ、その脇にあるプールへと落下したのでした。
「ム」
 すると、プールに落ちた途端にリンゴ泥棒の気配が弱体化したのをミツマタが感じ取りました。
「よもや水に弱いで御座るか? 否、ならば、とうに雨で全滅している筈で御座るな」
 液化ガスと金属で構成されるリンゴ泥棒は相当な比重があるのか最初は沈んでいましたが、表皮が一瞬で錆びて中のガスの大半が漏れ出し、内圧が下がり内容物が気化した僅かなガスばかりとなると、水面にプカリと浮かび上がりました。
「動きが鈍いね。溺れたのかな」
「そうかも知れぬで御座るな。そうだ、この距離から仕留めて見せるで御座る」
「えー遠くて無理だよ。殺人光線とか出ないのに」
「その得物の柄の端は竹槍を模して尖っておるでは御座らんか。投げて串刺しにすれば宜しかろう。ほれ、早うし遂げないと、誰ぞプールに近寄って来たで御座るぞ」

 夏人は、この異形の生物はきっと奇形の猿か熊なんだと自分に言い聞かせて恐怖心を抑え、その指も掌も無い腕の先端に手を伸ばしました。夏人の指先が異形の生物に僅かに接触した瞬間、夏人の神経網に、異形の生物からの視覚情報が流れ込んで来ました。目でも網膜でもなく、脳の中で直接、何かの光景が開花しては一瞬で消えて行きました。
 砂漠化する土地と枯れた低木。
 寒い宇宙。
 大気圏外から見た地球。
 凶器を持った二本足で立つ猫と、珍奇な服を着たピンク髪の若い女の姿。
 意味の分からない光景が脳をかすめて行くと同時に、夏人には不安と恐怖も伝わっていました。
 最後に見えたのは、手の伸べる夏人自身の姿でした。それは、異形の生物が今知覚している光景でした。そして異形の生物が諦めと感謝に近い感情を抱いている事が朧気に伝わって来たのを最後に、夏人の神経網への情報流入は途絶えました。この間、僅か数秒の事でした。夏人は夢から覚めた様にハッとすると、指先が触れているだけだった異形の生物の腕を両手で強く掴みました。すると芯まで錆びており、掴んだ部分がボロリと崩れ落ちてしまい、中が空洞なのが見えました。夏人は、この生物らしきものの死が不可避であり、伝わって来た諦観が正しい事を悟りました。
 背後で父親が金網をよじ登っている音を聞きながら、夏人がこの生物をに何かしてやれる事は無いのかと考えていたら、いきなり斜め上方から長い棒が回転しながら飛んで来ました。ヘリのプロペラ並みの凶悪な回転速度と破壊力で異形の生物を粉砕し、更にプール自体を大きく破壊した後、地面に食い込んでようやく止まりました。
 余りの速さに夏人は目の前で異形の生物が粉微塵になるまで棒の飛来に気付きませんでした。次の瞬間には足元のプールサイドも打ち砕かれており、水の中に転落しました。
 夏人はプールの底に足をついて立とう試みましたが、出来ませんでした。プールが特別深い訳ではなく、どう言う訳か足が下に行かないのです。幾ら足を下に向けようとしても、勝手に水面に浮かび上がります。足どころか全身が強い力で持ち上げられて水面の上下を行き来し、呼吸がままなりません。更に、プールの水が目に痛いほどしみます。金槌でもない夏人が、一瞬で溺れてしまいました。
 父親が夏人の名を呼びながら助けようとプールに入りましたが、夏人同様にすぐ溺れ、もがきながら浮いたり沈んだりしています。
 このまま親子で溺死して新聞の三面記事になるのかと夏人が思った時、金網をよじ登る音と甲高い早苗の声が聞こえました。
 早苗の両腕で抱られてプールサイドに横たえられた夏人は、助けに来たのが身内である早苗である事に安堵しました。しかし、コースロープを背負った父親をプールサイドに押し上げている校長の姿が目に入ると、父親の犯行が遂にバレてしまった事を知りました。
「困るな勝手に入っちゃ。このプール、死海と同じ位の塩分濃度だから慣れない人が迂闊に入ると溺れるんだよ」
 死海は普通の海水よりも遥かに多くの塩分が含んでおり比重が高いので、人間が入ると強力な浮力で浮かび上がります。底に足をつこうとしても出来なかったのは、その為でした。
「何でそんな大量の塩を入れて……?」
 校長の言葉に夏人が質問で返しました。
「冬の間でも藻とか虫が湧いたりしないから、プール開きの時の掃除が楽なんだよ。それに何より、普通の水より浮きやすくなるしね」
「……いや、普通の水でも十分人間は浮きますよね?」
「筋肉は真水より重いからね、ガッチリした人は沈み易いんだよ。この村の人間は馬鹿力が多いから、これくらい塩入れないと沈むんだよね」
 早苗と校長は死海プールの中で、苦も無く底に足をついて立っていました。
「あの……校長先生と早苗ちゃん、鉄下駄とか履いてるの?」
「履いてないよ」
 早苗が運動靴のままの片足を水面の下から胸の高さまで上げて見せました。実に柔軟な関節です。
「じゃ、じゃあ、あの時みたいに鎖帷子くさりかたびらでも着てるの?」
「着てないよ」
 早苗がジャージの上を際どい所まで捲り上げて腹を見せました。実に良く錬られた腹筋です。
「……あの……校長先生、何キロあるの?」
「110キロくらいかなあ」
「……ハァそうですか」
 校長は肥満でも高身長でもなく、寧ろ中年にしては腹も出ていないので、夏人の目にはせいぜい60〜70キロ程度にしか見えませんでした。校長から逸らした視線を虚ろに漂わせていると、早苗と目が合いました。
「わ、私は千代の富士よりも軽いんだからねっ!」
「……ハァそうですか」
 夏人がそれ以上何も言えずに呆然としていると、それまで黙っていた父親が俄かにソワソワと喋り始めました。
「ところで、オジサンの処遇なんだけど……」
「この人、白林君の親戚かい?」
「うん、お母さんの従姉妹の結婚相手だよ」
 父親は全てを正直に話しました。好奇心に駆られてコースロープを盗み出した事、それでハンモックを編んで寝てみた事、息子に説得されて密かに返しに来た事。
「以上が、全て包み隠さぬ事実です」
「父さん……」
 あんまり潔いゲロっぷりに、夏人は少しだけ見直してしまいました。
「で………………オジサン、数十人の女子中学生に取り囲まれて『国辱野郎』って小一時間罵倒される刑に処されたいです!」
「うわあ、おじさん相変わらず凄い変態ぶりだね」
「おお、これは凄い。こんなハイレベルな変態は、地理の授業の実例標本として使えそうなくらいだ」
「おじさん、新聞に載った事もあるんだよね。流石だよね」
「けど残念ながら、うちの中学は全校生徒が1ケタしかいないから、その刑は無理だなあ」
「じゃ、じゃあ、女子中学生の縄跳びで縛られて吊るされて、石を投げ付けられたいです! 主に股間を狙って」
「うーん、うちの生徒、馬鹿力だから石が脳味噌にめり込んで死ぬよ」
「手加減して投げれば大丈夫じゃない?」
「おいおい白林君、去年の雪合戦で、野球部長の肋骨を折って、教頭先生を鼻骨陥没による脳幹挫傷で意識不明重体にしたのは君じゃないか」
「えへへ。そういえば教頭先生まだ退院しないね」
「それならせめて、せめて、給食の残飯を投げ付けられたいです!」
「食べ物を粗末にするのは教育上良くないなあ」
 この様な早苗と校長と父親の会話が進行する傍で、夏人はプールサイドに突っ伏して泣いていました。この3人の内2人が身内かと思うと、もう泣くしかありませんでした。
「なに泣いてるの? 折角プールに来たんだから遊ぼうよ」
 夏人の苦悩を全く解さない早苗が水から上がって来て、夏人の背後から両脇に腕を差し込んで立ち上がらせました。
「あのねえ、この状況でプールで遊ぶって……」
「ほーら、しんかい6500」
 そのまま早苗は夏人を羽交い絞めにしたままで、後ろ向きにプールに飛び込みました。
 早苗は見事に沈み、プールの底面に仰向けにビッタリと張り付きました。浮く筈の夏人は上半身を早苗に錨の様にガッチリと固定され、激しくバタつく足だけが時折水面の上に現れるだけでした。
 プールの底で夏人は、水面越しに冷たく揺らめく月を凝視しながら、早苗の拘束を外そうと全力でもがいていましたが、無駄でした。背中からは、女子中学生らしい程よい皮下脂肪の感触と、その奥で鉄筋の様に重く硬く強張る怪物的大胸筋の収縮振動とが伝わって来ました。

「おぉ、いいなあ夏人……」
 その有様を見て、夏人の父が嘆息を漏らしました。
「そうだ先生! コレがいいです!」
「ああ、こんなんでいいなら、してあげられるよ」
 校長も水から上がり、父親を羽交い絞めにしました。
「違います先生! 女子中学生にしがみ付かれて沈みたいんです! 溺死せんばかりに」
「や、このプールで沈むのって、学校だと白林君と私だけなんだよね。他に沈むのは議員連中と、村長の孫くらいしかいないよ。
 ま、私もウン十年前はピチピチの男子中学生だったんだから我慢しなさい」
「ピ、ピッチピチの男子中学生……」
 アフロ頭で紫ジャージにネクタイという異様な風体の校長が、父親の脳内において、少女と見紛う様な美少年へと変容し始めました。
「先生! 自分はまだまだ未熟でした! 不審者歴ウン十年にして、新しい境地が見えそうです!」
「何だか知らんけど行くよ」
「待って下さい、まだ心の準備が!」
「ほーら潜水艦大和」
「駄目です! 脳内変換完了にはあと15秒ほどガヴォ」

 大きく破損したプールからは、サーと渓流の様な涼しい音を立てて塩水が流出し続けていました。
 その塩水の流れ行く先に、早苗の家のリンゴ畑がある事には、まだ誰も気付いていませんでした。


 第11話に続く