魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
 第9話「待って! マンゴーボーイ」
   原案:九条組  小説化:蓬@九条組

 あの狂った夜以来、夏人は安らげない日々を送っていました。夜はなかなか眠れず、どうにか眠りに落ちてもあの夜の光景を夢に見て汗だくで跳ね起きました。昼間も何だか動悸がして常に不安に苛まれました。竹、野球、落雷等、あの夜を連想させる物を見聞きすると体が震えて脂汗が出ました。
 大学生の長い夏休み。クーラーのない寮の部屋で夏人があの夜の記憶に取り憑かれて呆然と座り込んでいると、電話が鳴りました。夏人が少し震える手で受話器を取ると、
「マンゴー!」
早苗の声がしました。
 その単語を聞いた途端、間抜けな変装をした事が改めて恥ずかしくなり顔が燃える様に熱くなりました。しかしそれは一瞬で、次の瞬間には、恥ずかしさを大幅に上回る鮮烈さで、あの夜の光景が脳裏に否応無くフラッシュバックして来ました。
「さ、早苗ちゃん、その言葉は、き、聞かせないで……」
「どうしたの? 声震えてるよ」
「も、もしかしたら、もしかしたら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)なのかも……。ベトナム戦争に行った訳でもないのに情けない……」
「PTEDって?」
「エライ目に遭った後に調子が悪くなるっていうか……。あの盆踊り、俺にはキツ過ぎたみたい……。というか、アルファベットが入れ替わってるよ」
「じゃあ夏人くんのEDが治るように、花占いするよ」
「今度はアルファベットが抜け落ちてない?」
 電話の向こうで花を出して来るらしい物音が聞こえました。
「治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。治る、治らない、重篤な後遺症が残る……」
「治る確率3分の1かよ」
「治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。治る、治らない、重篤な後遺症が残る……。」
「……まだ花びらなくならないの? 何の花使ってるの?」
「刺身に付いてた菊」
「そりゃあ時間かかるね」
「……を顕微鏡で見ながら針で細胞を一個一個剥がしてるの」
「……電話切ってからゆっくりやってね。
 あ、そうだ、歯医者行った?」
「行ってないよ」
「じゃあ今度こっちにおいで。大学の近くに歯医者あるから」
「大丈夫だよ。もう生えて来たもん」
「生えてって……歯が?」
「うん」
「それ、歯が抜けた穴にご飯粒が詰まってるんじゃない?」
「違うよ、本物の歯だよ」
「……まあ今度見せてよ。それで歯じゃなかったら歯医者行こうね」

 数日後の昼間、夏人は大学生協でアルバイト中でした。一般民間企業でのアルバイトをした事もあるものの、倫理よりも利益を優先する事が少しも許せない性質なので、どこも2日以内に雇用主と揉め事を起こして解雇されました。そんな夏人でしたが、営利ではなく、学生達の利便性の為に運営されていて公共奉仕の側面が強い学生生協でのアルバイトだけは、長続きしていたのでした。
 今は、大学生協の店頭に置いてある投書箱に入っていた意見・要望を見て、掲示板に貼り出す返事を事務室で書いている所です。
 ――ベーマガが売り切れていて買えませんでした。もっとたくさん仕入れて下さい。――
「……『来月から1冊多く仕入れます。もしも大学生協以外で買う時は、血も涙も無い資本主義の荒波に揉まれて苦しんでいる潰れそうな小さな本屋で買って、経営を助けてあげて下さい』、と」
 ――エロゲーも扱って下さい。――
「……『大学生協の運営目的に関係ないのでお断りします。悪魔のような巨大資本に圧倒されて潰れそうな小さな店で、今にも倒産して社員全員ホームレスになりそうな弱小メーカーのゲームを定価で買って、か弱いプロレラリアートの雇用を守ってあげて下さい』、と」
 ――生活が苦しいです。――
「……『選挙に行って政治を変えましょう。弱者の生活を守ってくれる政治家を見極めるのです。選挙の時に現金やオニギリをバラ撒いてる候補者には間違っても投票してはいけません。受け取ったらあなたの魂には決して消えない罪が刻まれ、死後は地獄で二度と港に帰らない蟹工船に乗せられ未来永劫苦しみ続けるのです。千円1枚で地獄行き、オニギリ1個で蟹工船行き。気を付けましょう』、と」
 ――マイコンのエロいゲームを学割で買いたいです。――
「……『そんなもんに学割制度はありません。店主が今夜にも夜逃しそうな潰れそうな小さな店で、社長が明日にも首吊りしそうな零細メーカーのゲームを定価で買って、弱肉強食資本主義の因業渦巻く生き地獄で苦しみ悶える哀れな子羊達に救いの手を差し伸べてあげて下さい』、と」
 この夏人の政治色の強過ぎる回答は、後に「生協のアカ石さん」と呼ばれて学生達に親しまれるなんて事にはならず、夏休みが明けて多くの学生達が掲示板を見る頃になると問題になり、夏人は要望対応担当から大学生協食堂厨房へと配置転換されてしまうのでした。
 ――遠縁のお兄さんが、下半身の特定部位が機能停止する病気になったそうです。近所の人に聞いても、もう人生終わりだとか、一生役立たずだとか言うばかりです。どうすればいいですか。――
「……『それはとても可哀想ですね。でも、非常にデリケートな問題だと思うので、病院にでも行く事を勧めて、後はそっとしておいてあげて下さい。というか大学生協に医療の相談をされても困ります』、と」
 ――コーエーのエロゲー、マイロリータを仕入れて下さい。うひうひ。――
「……『あんたらマイコン同好会ですか。組織票はやめて下さい。それと、もうちょっと健康的なエロゲーで遊んで下さいね。まだ引き返せると思いますよ』、と」
 ――マンゴー。――
「……………………アギャー」
 強烈な殺傷力を持つ単語が一つだけ書いてある投書に夏人が悲鳴を上げると、事務室の入口で早苗の笑い声がしました。
「あははははは」
「い、いつの間に来てたの!? つか、なに投書スンダヨオォオオ!」
「夏人くん、花占いの結果出たよ! 『治らない』だったよ!」
「嬉しそうに言わないでよ!」
「やー、凄い大変で何日もかかったから、終わったとたん達成感と充実感で一杯になっちゃって。結果はどうあれ」
「早苗ちゃん、実は占いとか信じない方でしょ」
「うん。だって、お母さんが毎日毎日お婆ちゃんを呪ってたけど全然効果なかったし」
「……まあいいから、歯見せてよ」
 早苗が夏人のいる机まで来て口を開けると、白くて頑強な歯列が露わになりました。夏人は、相変わらず良い歯並びしてるなと思いながら、先日抜けた上前歯の所を見ると、確かに何か白い物が生えつつありました。まだ隣の歯の4分の3程度の高さしかありませんが、歯に見えます。
「……歯?」
「歯だよ」
「近所のお年寄の入れ歯をカチ割って、破片をねじ込んでる訳じゃないよね?」
「そんな事しないよ」
「……ちょっと鉛筆噛んでみ」
 夏人が差し出した鉛筆を早苗が生えかけた前歯で噛むと、ミシリという小さな音と共に歯形が付きました。歯はビクともしません。
「……歯なのか……?」
「歯だよ。鉛筆じゃなくてボールペンだって万年筆だって噛めるよ、ほら」
 早苗は事務机の上にあったプラスチックや金属の筆記具をバリバリと噛み砕きました。
「あああ分かった! 分かった歯医者行かなくて良いからやめてえええ!」

「次の歯が生えたって事は、抜けたあれは乳歯だったのか……」
 油性インクで黒くなった早苗の口周りをラッカーシンナーで拭きながら、夏人は現実を理解しかねていました。いくら成長の遅い子でも早苗の年で乳歯は無いだろうと思いました。それに、早苗が成長が遅いとは考えられません。脳の一部機能が目眩がするほど悪いものの、身長は平均を超えていると言っていたし、頭か足先までざっと見るに体付きも貧相ではありません。
「うん、貧相じゃあない……」
「どこ見てるの?」
「ごめん、一瞬現実逃避してた。
 でも中学生で前歯が乳歯って……」
「違うよ、抜けたのは永久歯だよ」
「だ、だよな。その年で乳歯がある訳ないよな? で、で、でも、そうすると今生えかけてるのは乳歯と永久歯の次に生えて来た3本目な訳……ってそれはおかしいよな!?」
「3本目じゃないよ」
「だ、だよな。サメじゃないんだからそんなに何本も生えかわる訳ないよな? あ、あれ? じゃあ何で前の歯が永久歯……。
 じ、順を追ってみようか。1本目の乳歯の前歯は、うんと小さい頃に生えて来て、でー……大体6歳くらいで抜けるよね。そしたら次は永久歯が生えて来るよね?」
「うん」
「で、この前抜けたのは、その永久歯な訳?」
「違うよ。6歳くらいで生えた永久歯は、お婆ちゃんに鉄アレイで殴られた時に抜けちゃったよ。で、その次に生えた歯は虫歯になったからお父さんがペンチで抜いてくれて、そのまた次に生えた歯は公園の二宮金次郎の銅像のチョンマゲを噛んだら抜けちゃって、そのまたまた次に生えた歯が、この前抜けた歯だよ」
「…………」
「だから3本目じゃなくて5本目なの」
「………………」
「何でみんな、痛い事されるのに歯医者に行くのかなー。歯なんて虫歯になったって、ペンチで抜いちゃえば次のが生えて来るのにね」
「………………………………」
「ちょっとー、どこ見てるのー」
「……ごめん、現実逃避してた」

 夏人は歯の事は忘れる事にして、勤務時間終了後に二人で早苗の家に向かいました。落雷に巻き込まれて欠落した早苗の記憶が今も戻らないので、昔の写真でも一緒に見て思い出そうというのです。
 途中、雷を起こした本人である沼畑村議の家に寄りました。早苗の記憶が戻らない事を話して何か良い方法でも教えて貰えないかと思ったのですが、日に日に老人力が増進しているようで、ダイシャーク菩薩のプリントTシャツを着て盆栽を食べながら、縁側でイソギンチャクみたいに揺らめいてほうけており、あの日の落雷の事すら覚えていない様子でした。諦めて立ち去ろうとしたら、ダイシャーク菩薩のプリントTシャツを2着くれました。夏人は政治・宗教的信条により強く拒否したのですが、早苗が何も考えずに受け取ってしまいました。

 傾いた早苗の家に着き、早苗はアルバムやらを出す為に押入れを開けて中をかき回しています。家は盆踊りの日よりも傾きが激しくなっており、傾いた壁を見ながら歪んだ床の上を歩くと、夏人は奇妙なだまし絵の中を歩いている様な感覚になりました。車酔いの様な気持ち悪さがこみ上げて来ます。早苗を手伝いに押入れに行こうと思っていたのを断念し、へたり込む様に居間に座って家の中を見回すと、以前も見た茶色い猫の他に、白黒猫も居るのに気付きました。早苗に聞くと、あの茶色猫の兄弟で名前はコウゾだと教えられました。もし今も早苗の祖母が居たら猫なんて瞬殺されていたろうなと思っていると、その祖母の若い頃の写真が目に入りました。テレビの上あたりの鴨居に、早苗の祖父母の若き日の写真がかけてあります。そこに映っている20代前半の祖母の姿は――普通でした。身長160cm超と当時の日本人女性としては大柄な方でしたが、十分に常識の範囲内です。姿形が早苗に少し似ている様な感じもします。が、その目付きだけは、国を愛して愛して愛して止まず、国の為なら肉親を殺す事も地球を破壊する事も厭わない、異様な貫通力の眼光だけは、全く早苗と似ても似付かないものでした。その祖母の隣に写る出征直前の祖父は――不自然に巨大でした。2m40cm程もあったそうです。しかし、その祖父が硫黄島で戦死し遺骨だけが無言の帰宅をした時、その骨は常人のサイズに縮んでいたそうです。その代わり、その直後から祖母が急速に巨大化し、早苗や夏人の記憶にある巨人へと変容したのです。村では「武神が新たな憑代よりしろを得た」と畏敬の念を集め、以後、祖母は長く村最強の存在であり続けました。
「お婆ちゃん、この頃は大きくなかったんだよね」
「うん、この写真の頃はお爺ちゃんが大きかったんだよ。その前は、村長のお父さんが大きかったんだって」
 夏人は、早苗の祖父がかつて巨大だった事は親戚なので以前から知っていましたが、その前にも巨大化した人がいた事は初耳でした。
「村長のお父さんて……この前の祭で死んだあの人?」
「そうだよ。ずっーと昔、若い頃、この写真のお爺ちゃんくらい大きかったんだって。でもある時、病気で死にそうになったら急に体が縮んで普通の大きさになったの。そしたら代わりに、今度はお爺ちゃんがこんなに大きくなったって」
「で、お爺ちゃんが亡くなったら、次はお婆ちゃんが大きくなった訳?」
「そうだよ」
「何だそりゃ……。何か変な怨霊でも取り憑いてる訳でもあるまいし……」
「それからはずーっと、もう何十年もお婆ちゃんが大きいの。
 あ、アルバムとか出して来たよ」
「じゃあ見てみようか。って、何着てんの!」
 早苗はさっき貰ったダイシャーク菩薩Tシャツを早速着ていました。
「夏人くんも着なよ。ほらほら、ペアルックペアルック」
「ダメー! 意味も分からずそんなの着ちゃダメー! 脱ぎなさーい!」
「うわーい夏人くんが盛りが付いたー」
「盛ってマセーン!」
 どうにか説得して着替えて貰ってから、気を取り直して早苗が出して来た物を見ると、アルバムや母子手用の他に、貯金通帳も入っていました。
「いや、貯金通帳はいいから」
「見ないの? 近所のおばさんたちに見せると、すっごい喜ぶんだよ。鼻の穴を拡張させながら熱心に見て、『早苗ちゃんのお父さんは蒸発してもちゃんと毎月仕送りしてくれるなんて感心ねぇ』って褒めてくれるの」
「ダメー! そういうのはヨソの人に見せちゃダメー!」
「なんで?」
「ヨソの人に見せたら恥ずかしい物なの! 見せちゃ駄目な物にはこの印つけておくからね!」
 夏人はサインペンで貯金通用の表紙に「恥」と大きく書いて丸で囲みました。その勢いで、ダイシャーク菩薩Tシャツ二枚や、床に放置されている試験答案のうち70点未満の物、通信簿、室内に干してある下着やらにも恥マークを書きました。
 それが済むと、アルバムは時間がかかりそうだったので、夏人は母子手帳を先に手に取りました。母子手帳も見る必要があるのは誕生日が分かる箇所くらいです。
「えーと、あ、あった。5月15日。これが早苗ちゃんの誕生日だっていう証拠だよ。やっぱり思い出せない?」
「うーん、その日付を見ても、自分にとって特別な日だったっていう記憶が全然なくて」
「そうか、困ったね……。
 ところで、これ見ると、生まれた時の体重は7178グラムだったみたいだね。
 ん……? な、ななせん? ナナセンだって!?」
「どうしたの? スカウターでも故障した?」
「い、いや何でも。(普通は3000グラムくらいじゃなかったっけか。でも重いとか言っても失礼だよな。)
 そうだ、広瀬ちゃんのも見てみようか」
 一緒に出してあった、早苗の姉、白林広瀬の母子手帳を開きました。
「2943グラムだって。お姉ちゃん生まれた時から軽かったんだね」
「…………(いや、それが普通なんだ)」
「今度はアルバム見ようか。誕生日はどうでもいいから」
「どうでもいいのかよ」
「だって誕生日だからって何かしようとすると必ず、お婆ちゃんが、日本人は正月に年を取るもんだ、誕生日を祝うなんぞ西洋かぶれだ敵性文化だって怒って殺されそうになったんだもん。誕生日がめでたいって実感があんまりないの」
「……そういや確かに、この家で誕生日を祝ってるの見た事なかったな……」
 アルバムを開くと、夏人は早苗の出生時のページを探しました。7000グラムを超える赤ん坊がどれだけのものだか気になって仕方がありません。
「あ、あった。(あれ……?)」
 出生直後の早苗は、極々普通の赤ん坊にしか見えませんでした。夏人の予想に反し、特に大柄な訳でも、太っている訳でもなく、7000グラムを超えている様には見えませんでした。
(普通だ……)
「赤ちゃんてサルみたいって良く言うけど、そんな事ないよね」
「あ、ああそうだね。可愛いよね。(……7000グラムってのは計量か記載のミスか?)」
「赤黒くて湿ってて毛がないから、サルよりタコに近いよね」
「せめて脊椎動物に例えてやろうよ」
「じゃあアカハライモリかな」
 ページを遡り、早苗の姉の出世時の写真を見ましたが、これまた極普通の新生児でした。早苗の方が少しは大きくて肉付きが良いのは確かでしたが、倍以上の体重差がある様には見えませんでした。
(やっぱり書き間違いだよな……)
 夏人がそう思いながら更にページを遡ると、また別の出生直後の新生児の写真がありました。でも、白林家は、広瀬と早苗の二人姉妹の筈です。
「誰これ?」
「お姉ちゃんだよ」
「いや、広瀬ちゃんはこっちのページでしょ? 顔違うし、これ別の赤ちゃんだよね」
「広瀬お姉ちゃんじゃなくて、一番上のお姉ちゃんだよ。でも生まれてすぐにお婆ちゃんに『この戦時下に兵士になれぬ女児など育てていられるか』って殺されちゃったんだって。だから名前も無いの。お婆ちゃん、私が生まれる前から時差ボケしてたんだね」
「えええ!?」
 早苗の祖母は、年齢を重ねても心身ともに壮健でした。しかし若き日に玉音放送で敗戦の報を聞いた時の衝撃で、精神の一部に失調を来たしていたのです。唯一絶対の存在として崇拝した天皇の肉声により、何よりも愛した神国日本の敗北を告げられたショックの前には、いかな鋼の肉体の持ち主と言えども、脳髄は柔く脆い肉プリンでしかありませんでした。それ以来、白林征海の時間認識は、1944年8月16日から1945年8月15日の1年間を、車輪を回すネズミの様に何回も何回も、循環し続けています。それを早苗は「時差ボケ」と表現していました。
「お姉ちゃんは庭のあの辺に埋まっているんだって」
 早苗が指差した庭のリンゴ畑の一角には、片手に収まるサイズのいびつな雪達磨の様な形をした石が転がっていました。早苗も夏人も知らない事ですが、それは両親が亡き娘の供養にと手向けた物でした。両親はその場所に最初は地蔵を置きました。しかし、不要物として始末した孫の供養を許さぬ祖母により地蔵は粉砕され、両親は地蔵の破片で頭蓋骨が陥没するまで滅多打ちにされました。そこで両親は、地蔵の形を極限まで単純化し、もはや誰も地蔵だと認識しないであろう歪な「8」の字形の小さな石を用意し、娘の眠る場所に供えたのでした。両親の目論見通り、その前衛芸術的フォルムの地蔵は祖母の目には只の小石としか写らず、以来ずっと畑の隅で名も無い第一子の霊を密かに慰めているのでした。
「掘ってみる?」
「ダ、ダメ! 死者の眠る場所を暴くなんて絶対ダメ!」
「あ、コウゾがサンダーバードみたいな勢いで掘ってる」
「あああコラやめなさいそこの白黒猫!」
「なんか白い物を掘り出したよ」
「うわあああ! それを離しなさいこのバチあたり猫オォオ!」
 夏人が靴下のまま庭に駆け出すと、コウゾは白い何かを咥えたままカールルイスを凌駕する速度で走り去ってしまいました。夏人が呆然と立ち尽くしていると、ミツマタがコウゾの首根っこを咥えて連れ戻して来て、コウゾの持ち去った物を元の場所に埋め戻し始めました。
 猫らしいとはいえ不謹慎極まりない白黒猫と、賢すぎて逆に不気味な茶色猫の行動に、夏人は頭痛を覚えながら屋内に戻りました。
「えーと、あと思い出せないのはお母さんの顔だっけ?」
「うん。声とか匂いは覚えてるんだけど」
「まあ、アルバムでお母さんの顔を沢山見てみよう。そしたら思い出すかも知れない」
 そう言った夏人がアルバムの最初のページを開くと、若い姿の早苗の父と一緒に、見慣れないデップリとした女性が写っていました。南の島の陽気なデブ姉ちゃんといった雰囲気で、歯グキを剥き出してニカリと笑っています。
「あ、ありゃ……。(誰だこれは……?)
 夏人の記憶にある早苗の母は、線の細い儚げな人でした。こんなに太ってもいませんでしたし、こんな快活な表情をする人でもありません。
「あの、失礼だけど、お父さんってバツイチだったりする?」
「違うよ。お母さんは昔太ってたんだって」
「あ、そうだったんだ……。じゃああんまり昔のお母さんの顔見ても仕方ないかな。もうちょっと最近の見てみようか」
 そう言って夏人が過去から現在に向かってページを捲って行くと、早苗の母の姿が、昆虫が完全変態するかの如く激変して行きました。第一子の出生&死亡の直後には、相撲取りからプロレスラー程度にまでスリムになり、広瀬の誕生後には中肉中背になってしました。両親は第一子の死を教訓に、広瀬を祖母の魔手から懸命に守りました。しかし祖母も常に広瀬を抹殺しようと狙うので、早苗の両親は24時間365日、気の休まる事の無い生活を強いられました。そして早苗の誕生の頃には、早苗の母は痩せこけ、何度も祖母から殴打された為に脳挫傷で表情筋の一部が麻痺し、壇ノ浦の亡霊の様な呪わしいオーラを放つ容貌になっていました。それから後も、平安貴族の様に濃く長かった黒髪は薄くなり地肌が透けて落ち武者みたいになるわ、ゴルバチョフみたいな大きなアザが出来るわと、ダイナミックな変貌を続けて行きました。そしてそれこそが、早苗の記憶にある筈の時期の姿です。
「お母さん凄いな。あんなに太っていたのに、ダイエット大成功だよ」
「いや、これは嫁ぎ先選びの大失敗だろ……。
 それより、どう? 写真見てお母さんの顔思い出した?」
「うーん、こんなに変わっていると、どの顔を思い出して良いのか分からないや。というか、人間の顔なんて太ったり痩せたり麻痺したり潰れたりして簡単に変わっちゃうから、覚えてもしょうがないやって思えて来たよ」
「若いのにそこまで悟り切らないでよ」
 この様に二人が居間でまるで実にならない事をしていると、遠くで半鐘が掻き鳴らされる音がしました。
「何だ何だ? 火事?」
「あ、呼ばれてる。行かなきゃ」
 村役場がマリィを呼んでいる合図です。外に出てみれば、きっと狼煙も上がっている事でしょう。
「中学生なのに消防団にでも入ってるの? そんなに人手不足なの?」
「うーん、まあそんな所」
「それにしても今時、防災無線のサイレンじゃなくて鐘?」
「いやー、防災無線はあるんだけどね。んー、村長が時代劇の大火事で鐘を鳴らすシーンが大好きで」
 呼ばれているのでマリィとして行かねばなりません。この場で変身して夏人を驚かせたらまた心臓が止まるかなとか好奇心が沸きましたが、そうすると機密保持の為にミツマタが夏人を斬殺するのは明白なので思い留まりました。
「うーん、どうしよう……。あ、そうだ! 久しぶりに気絶ごっこしようよ」
「き、気絶ごっこ!?」
 気絶ごっこ。
 それは、早苗が好んで行っていた無謀遊戯の一つでした。一人が仰向けになり、その胸の上で、もう一人がジャンプするのです。それにより、仰向けの方の呼吸器が、ジャンプする方の体重で瞬時に強烈に圧迫され、かなりの確率で気絶します。
 幼い頃の早苗は、近所の友達と頻繁に気絶ごっこをしていました。夏人も何度も相手をさせられた記憶があります。嫌がって全力で逃げても早苗に簡単に追い付かれて組み倒されたと思った直後には上から踵で全体重を胸に叩き込まれ、そこで意識が暗転するのでした。
「い、いや……いい」
 夏人の全身が強張り、脂汗が滲みました。年齢を重ね知識が増えた今だからこそ、当時よりも強く認識していました。あれは一歩間違えば死にかねない危険過ぎる遊びだと。
「久しぶりにしようよ。東京には気絶ごっこ無いんでしょ? なら、もう何年もしてないよね?」
「駄目だってば。あれは危ないよ」
「まあまあそう言わずに」
 夏人は後ずさりましたが、閉まっているフスマに背中が当たりました。早苗の左手に二の腕を強固に掴まれ、夏人は組み倒されると思いましたが、違いました。早苗は左手で夏人の位置を固定したまま、右手で掌底を夏人のミゾオチに打ち込みました。
 フシュー、と、空気が抜ける頼りない音がします。夏人はスプレー缶の音かと一瞬だけ思いましたが、それは自分自身の肺から空気が搾り出されている音でした。既に肺には殆ど空気は残っていませんが、尚も早苗の掌底が夏人の肺を圧迫し空気を奪い続けていました。何年か会わなかった間に、早苗は胸を踏みつけずともミゾオチを打つだけで気絶ごっこが出来る迄に成長していたのでした。
 夏人がようやく息苦しさと胸の圧迫感に気付いた時には、フスマを突き破って隣の部屋に倒れ込みつつありました。そこで誰かが布団で寝ており、夏人の闖入に悲鳴を上げて起き上がったのが見えましたが、夏人の意識があったのはそこまででした。

「起きて起きて」
 早苗に揺さぶられて夏人の意識が戻りました。目覚める瞬間は、テレビの砂嵐みたいに意識がノイズだらけに錯綜しており、それが数秒かけてクリアになって行きました。砂場に埋まっているのを引き揚げられるみたいな目覚めでした。
「……うー、ああ、そうだ、気絶ごっこだったね……」
 ミゾオチに鈍痛がありますが、もう息苦しさはありませんでした。
「紹介するの忘れちゃってたよ。庵だよ。近所の子というか、まあそんな感じ」
 身を起こして早苗が指差す方を見ると、敷いてある布団の枕元に早苗より少し年下くらいの子が正座して座っており、膝の上で例の白黒猫が丸くなっています。日本刀らしき物を持っていますが、林檎ヶ丘村の無法ぶりを思い知っている夏人は、もう何とも思いませんでした。
「コウゾの飼い主で、ミツマタも実はこの子に借りてるみたいなもんなの」
「初めまして。あ、びっくりさせちゃったみたいで悪かったね」
「驚いたぞ。夜賊かと思ったわ」
「夏人くんたら女の子の寝室にシールドトンネル工法で突貫するなんてンモゥ大胆不埒だなあ」
「早苗ちゃんがやったんでしょオオ!」
「で、これは親戚の夏人くん」
「うむ」
 庵は一礼して夏人をじっと見ました。
「余り似ておらんな」
「そりゃまあ再従兄妹はとこだからね。6親等も離れているから遺伝的にもかなり遠いよ。
 ところで何でここで昼寝してたの?」
「服を返しに来たら、前よりも更に床やら壁が傾いておるからに真っ直ぐ歩けなんでな。船酔いのようになってしもうたわ」
「あ、俺も今日この家で目が回ったよ」
「それはそうと、厄介な病を患ったそうじゃのう」
 夏人は庵の視線に、年齢不相応に深い哀れみと同情が含まれているのを感じました。
「早苗ちゃんから聞いたの? 心配ありがとう。でも、そのうち良くなるかも知れないし……」
「哀れよのぅ。さすれば子供も残せんではないか。……身共みどもと同じか……」
「…………?」
「自己紹介済んだよね。じゃあまた気絶しよ」
「いやいいから!」
「ほらこれ見て」
 そう言って早苗は押入れから18リットル石油ポリタンクを2個出すと、両手に1個ずつ持って夏人の上に乗ろうとします。もう既に両足が太股と下腹部の上に乗っています。
「これ持ってすると威力が増すんだよ。私が発明して、校長先生も斬新だって褒めてくれたんだよ」
「も、もうやめて! こんなんやってたら死ぬって!」
「大丈夫だよ。これ持ったって千代の富士くらいの重さにしかならないよ」
「ちょっと待てお前何キロあ」
「計算しちゃらめー!」
 ドムッ……メリメリッ……
「ァブュ! (フシュー……)」
 胸の上でジャンプ&着地され、夏人は再び気絶しました。
「お、おおお……目上の縁者相手に何という事を……」
「庵もやる?」
「いらんわ!」
「そう言わずに一度やってみると良いよ。気絶する瞬間、目に見えない光が全身に溢れ返って病み付きの臨死体験だよ。
 庵は胸平たいから、今ならまだ思いっ切り胸の上でジャンプしてあげられるよ」
「うるいさい身共は父上に時間を止められたんじゃ。この猫ども諸共な」
「女の子は胸が膨らんで来ると、友達が胸を踏むのをためらうようになって、いつか恋人が出来る時まで、誰にも胸の上でジャンプしてもらえなくなるから……。だから、後悔しないように、今を大切にして、今しか出来ない事を思い切りしておこうよ」
 早苗は両の掌を自分の左右の胸に当てて、時の流れを俯瞰する様に庵に語りかけます。
「ミツマター! どこじゃミツマター! こやつやはり頭が! 頭があー!」
「ほら、仰向けになって……」
「コウゾ、ミツマタ! こやつを止めい! 殺しても構わん!」


 第10話に続く