魔女っ娘妖精物語 あっぷるマリィ
 第1話「深淵より来たりし者 其は……」
   原案:九条組  小説化:蓬@九条組

 ある6月の日曜日、家族で営むリンゴ畑でリンゴの袋掛け作業を手伝っていた白林早苗は、「ギナァ゛ーーーーーーーーーーーァァァオ」という、聞いた者の心を不安にさせる鳴き声を耳にしました。
「あ、猫だ!」
 人間の赤ん坊の喚き声にも聞こえる声でしたが、動物が大好きな早苗は、発情期か何かで極度の興奮状態にある猫の鳴き声だとすぐに理解しました。早苗は猫を見たくなり、ハシゴのてっぺんから一息に飛び降りると、声がした築80年の納屋の裏の方へと走りました。
「猫! 猫猫猫ー!」
 東北最北部でも最果ての、娯楽が極端に乏しい農村です。眼に映る動物(脊椎動物限定)を可愛がる事は、早苗の数少ない楽しみの一つでありました。

 果たして、そこに居たのは確かに猫でした。1匹の茶色い猫が、体重が数倍以上ありそうな野犬と対峙して唸り声を上げていました。しかし、それは早苗の考える猫の範疇から大幅に逸脱する存在でした。
 猫は犬と睨み合ったまま、前足を宙に浮かべ、すぅっと二本の後足だけで立ち上がりました。しかしあくまでも猫。立ち上がったその姿勢は不安定で、とても闘える様には見えません。
 早苗は両者の間に割って入ろうかとも思いましたが、猫はともかく野犬を無事に追い払える自信が無い上、猫の奇妙な行動に戸惑って動けませんでした。
 その時、猫の体の奥から、ゴリュ、という妙な音が。
「こ、この音は……」
 同じ種類の音を、早苗は聞いた事がありました。(面白いから)クラスの皆で、(泣き叫ぶ)玉城君の腕を思いっきり引っ張ってたら肩が外れてしまった時の音です。因みに次の日は、全校集会と校長先生の記者会見が行われました。
 しかしその時と違い、音は一回では終わらず、連続して鳴り続けます。
 バキョバキキペギョ。
 そしてその音に合わせ、猫の関節が、体格が、見る見る変化します。関節が猫としては有り得ない方向にねじ曲がり、背筋が伸び、腰が引き締まり、肩幅が広くなり、指が伸び、人間の様な体格へとモーフィングして行きました。
 ゴバキュペギペギ。
 猫が、己の体内の筋と骨を組み替えている音でした。10秒もしない内に音は止み、猫の首から下は、尻尾がある事と毛皮で覆われている事、そして身長が50cm程度しかない事を除き、人間そっくりの形となっていました。その体の線には、猫特有のしなやかさは見る影も無く、不自然かつ妖しい逞しさだけが溢れていました。

 その異様な光景に、犬は小さく唸りながら身を低くし、早苗は声すら出ませんでした。
 猫は人間の様に物が掴める様になった右手を顔の高さに上げると、自分のヒゲをぐっと一本掴んで引っ張りました。ヒゲは抜けると、一瞬紫色の火花に覆われた後、猫の手の平の上で日本刀へと変容していました。
 猫は刀に左手も添えると、すっと中段に構えます。犬との距離、7m程。
 次の瞬間、猫は犬の右側面にまで移動していました。いつの間にか返していた刀の峰で、犬を腹の下からすくい上げる様に持ち上げると、空中で反転させて背中から地面に叩き落していました。その一瞬の出来事に、何が起こったかまるで分からない犬の眼は、正面を見据えたままでありました。

 犬は一目散に逃げて行きました。どうやら怪我は無かった様です。
 犬が見えなくなるまで遠くに行くと、猫は首だけを動かして後ろを振り返り、納屋の陰に隠れて一部始終を見ていた早苗と目が合いました。
「ひ、ひわっ……!」
 早苗はその瞬間、心臓がきゅうっと縮み上がるのを感じました。高血圧の高齢者ならポックリ逝ってしまったかも知れません。
 猫の目は、通常の猫の目とは明らかに違う気配がしました。早苗を、見て、認識して、考えている、知的生命体の眼差し。しかし根底にある倫理観や価値観が根本的に違う、エイリアンの様な得体の知れぬ眼差し。
「ギニャニャ……」
 猫が妙な鳴き声を発しました。
「……?」
 早苗はエイリアンに宇宙語で話しかけられた様な気分でした。猫は早苗の反応を見て「おっと失敗」とでも言うかの様に自分の後頭部をポンと叩くと、喉に片手を当てました。ゴキバキと言う音が再び、今度は喉からしました。
「見たな……」
 人間語でした。喉の筋骨を組み替えた猫が、人間の言葉を発したのでした。
「犬は喋らぬ。しかしお主は人間。済まぬが、生かしておく訳に参らぬで御座る」

「いギャ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 遂に早苗は発狂し、先程の犬と同様、全力で逃げ出しました。
「農狂戦士ミツマタ、口封じつかまつる!」
 抜き身の日本刀を持った異常猫が、後ろから二足歩行で追って来ます。
「嫌っ! 来ないでエッチ馬鹿変体ふふふ不審者不審者変質者ぁ嫌ァァアアア〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 早苗は行く先も考えずに駆け出しました。それでもとっさに母屋に逃げ込まず、納屋の前を通る農道に飛び出たのは、父親は出稼ぎで数ヶ月前から不在で、姉は精神を病み4年間自室から出て来ず、農作業を主に担う祖母も足腰が弱り始めたのを、無意識に考えていたからでしょうか。
 早苗はそのまま100m程離れた隣家に直進しました。この家のおばさんは昔から事ある毎に「早苗ちゃん、お父さんとお婆ちゃんに公冥党に一票よろしくって言っておいてね。早苗ちゃんもハタチになったら公冥党に投票してね」と言っては早苗に優しくしてくれていました。
「おばさん助けてっ! 大人になったら一票入れるから! 投票所を襲撃して1000票くらい不正投票するから助けて!」
 田舎ゆえ鍵すら無い無防備な縁側の扉を跳ね飛ばす様に開けながら早苗が叫ぶと、おばさんは居間でワイドショーを見ていました。おばさんは早苗の方を見た瞬間、その背後の異常猫と目が合い凍りつきました。
 早苗は土足のまま部屋に上がり込むと、おばさんの後に隠れました。
「早苗ちゃん、下がってなさい」
 立ち上がったおばさんの目は縁側から侵入してきた異常猫を睨みギラリと光り、何かを投げつけるかの様に右手を高く上げました。見えない大きなボールを掴む様に指がグワシと力強く曲げられたかと思うと、手の中に眩い黄色の発光体が出現しました。
「南無妙法蓮華経……」
 おばさんの瞳孔がギュウウと収縮し、額には瞬時に脂汗が浮かび、パーマ頭が逆立ちます。右手の球状発光体からは只ならぬ殺気と、「キィィィィィィィィィーーーーーーーン」という高周波が放たれています。
「ぬううん! 葬価林檎ヶ丘支部婦人部秘奥義、フェータル・ダイシャーク・アターック!!」
 おばさんは発光体をフルスイングで異常猫に投げ付けました。異常猫の居た縁側の床に命中すると凄まじい爆発を起こし、縁側を完全に吹き飛ばすに留まらず、庭に人間を数人埋葬出来る位の大穴を開けていました。
「や、やった!?」
「ううん手応えが……」
 そう言って周囲を見渡したおばさんは、縁側の扉のすぐ上、鴨居の所に異常猫を発見しました。着弾の瞬間に上に跳んで難を逃れていた異常猫は、そのまま鴨居を足場におばさんへと一直線に跳びかかったと思うと、中空で擦れ違い様に頚動脈を切断してしました。
 おばさんは首の横から水鉄砲の様に血を噴出しながら倒れ伏しました。
「あああっ! おばさん! おばさん! おばさん!」
「さな……ちゃ……、公……よろ……」
 林檎ヶ丘最強の神通力使いと謳われたおばさんの、余りにあっけない最期でした。

 その後、おばさんの家から飛び出した早苗は涙目で思い付く限りの所に駆け込んで助けを求めましたが、ある家では二丁拳銃を構えて出て来たおじさんが発砲前に脳天をカチ割られ、ある家ではあんちゃんが放った光線技が刀で反射され自爆し、交番では巡査が軍刀を抜く前に首を刎ねられ、消防分署では署員が表に出て来る前に建物の基礎が破壊され生埋めになり、農狂林檎ヶ丘支店では農薬から合成した毒ガス兵器が使用されたものの風向きの関係で農狂職員及び風下一帯が全滅し、村長宅では幾多の政敵を葬って来た後援会四天王が3秒でバラバラにされました。
 早苗の逃避行が始まって2時間で、今朝の時点で413人いた林檎ヶ丘村の人口は293人にまで減ってしまいました。
 もう駄目だという、どうしようもない自覚が否定しても否定しても浮かんで来ます。
「何という持久力。人間とは思えぬで御座る」
 異常猫は刀を持った右手を上に掲げ、大股でのっしのっしと悠然と迫って来ます。身長が倍以上ある早苗が全力疾走しているのに、全く余裕で追跡しています。異常猫が時折無造作に刀をブンブンと振り回すと、周囲にある樹木や電信柱が簡単に切り刻まれました。
 早苗は、強烈に死を意識させられました。
「そんな……私まだ中学生なのに……」
「済まぬが潔く諦めい。お主に罪は無い故、浄土へ向えるで御座る」
「まだ、東京に行ったことだってないのに……。仙台までしか行ったことないのに……」
 今早苗は裏山の山道を駆け上がっていました。もうすぐ頂上に辿り着きますが、そこには小さな公園があるだけで、もはや逃げ場はありません。その時、山道脇の樹に針金で括り付けられた「変質者を見たら110番  赤森県警」という立て看板が早苗の目に映りました。
 早苗は看板に駆け寄ると、渾身の力で樹から引き剥がしました。風雨に晒され錆び付いていたとはいえ、固定に使われていたのは針金。通常の中学生の力で引き千切れる物ではありません。しかし、今の早苗は死が迫り来る状況の中、平時を遥かに上回る身体能力を発揮していました。
「と、とうきょう!」
 早苗は振り向きざまに看板を全力で振るいました。
「気がふれたか」
 異常猫は、ハタキでホコリを払う扱う様な動作で、刀を片手でひょいと振ります。すると異常猫に当たる前に看板の上半分が切り飛ばされ、早苗は農作業服の左脇腹に妙な違和感が走ったのを感じました。
「き、きき斬られ?!」
 早苗は脇腹から血肉が噴出するのを想像して戦慄しました。ですが、そこから出て来たのは無数の紙片――切られたポケットに入れていたリンゴの袋掛け用の紙袋でした。
「むッ」
 紙片は散らばりながら落下し、極々短いほんの僅かな一瞬だけ異常猫の視界を塞ぐ形となりました。異常猫に生じた紙一重の隙。その刹那に早苗が再び振るった下半分だけの看板が異常猫を直撃しました。圧倒的な攻撃力を持つ異常猫でしたが、体重だけは普通の猫と変わらなかった様で、早苗の打撃で意外なほど軽々と弾き飛ばされ、さっきまで看板が固定されていた樹の幹に当たって落下しました。
 早苗はその落下点に驚くべき俊足で駆け寄り、更に何度も何度も看板を振り下ろしました。
「とうきょう! とうきょう!」
 生きるんだ。生きて、大きくなって、大きくなったら東京に行くんだ。東京には若い人がいっぱいいて、お店も学校もたくさんあって、電車もバスも走ってるんだ。信号だって横断歩道だってあるんだ。ボディコンを着てディスコに行って素敵な商社マンの男の人と踊るんだ。
「とうきょう! とうきょう! とうきょう! とうきょう! とうきょう〜〜〜〜〜〜〜!」
 殆ど無意識に看板を振り下ろし続けていた早苗は、脳裏で支離滅裂にそんな事を考えていました。

 時は1988年、世に言うバブルの最中。失われた10年が始まる3年程前。浅墓であれど、未来への希望と楽観が未だあった時代のお話です。


 第2話に続く